あるおじさんサポーターの独白〜傷は傷として・後編

↑の続きとなります

かなちゃんはとにかく無防備に笑ってくれる人でした。
笑ってくれるとそこに花が咲いたようにパァッと明るくなるんです。
だから僕はいつも「つぎはどうやって笑わそうか」と思ってばかりいました。

市立美術館にて


平日、おはようからおやすみまでずっとメッセンジャーで話をしてるのに週末の車の中ではまだ僕に話したい事がありすぎて頭の中が渋滞してしまって「んーまた後で思い出すね」と言ってはすぐに全然違う事で笑い転げながらランチの店へ向かいます。
2人のいくつかあるお気に入りの店のいつもの場所で、小食なかなちゃんの残したメニューを平らげるのは僕の仕事で。

「ずーっとさぁ、こんな風に週末を楽しみに生きてきたいよね。俺たちそれだけで充分じゃんね?」

なにかにつけてそんな事を話していたのだけど。
毎週末のランチも
月いちの飲み歩きも
2016年の秋に一旦続けられなくなりました。
かなちゃんの喉にまた癌が見つかったのです。
僕と再会する前に一度見つかって施術で摘出して辛い治療を切り抜け寛解まで来ていたはずなのに…

一度めの時はきれいに手術の傷も目立たなくやって貰い、まったく痕は残っていませんでしたが、
今度は範囲を大きく取らなければならなくて、舌も半分取って腿から組織を移植して再建をする、という僕みたいな素人でも分かる「その後」も大変そうな大きな手術になりました。
さすがのかなちゃんも勇気のいる決断だったと思います。
それでも今までの治療の続きを信じよう、と進む決断をした彼女を僕は僕なり、いや僕にしか出来ない支え方があるはず!と信じてあえてそれまで通りと同じように接していくつもりでした。

■明日の涙は明日流せばいい

手術当日には余計な心配を掛けたくないからそれまでと同じように朝「仕事行ってきまーす」とメッセージは送ったけど、実は普段通りに仕事してるどころの気持ちではなくて内緒で休みを取って、そこら中のお寺や神社にお参りをしてお願いをしていました。
とにかくなにかしてないとどうにかなりそうで。
夕方になって彼女の妹から無事終了のお知らせが届いた時は本当に力が抜けました。

その後の入院期間は傷の治癒と大きく変わってしまった口内の咀嚼や会話のトレーニング。
なんでもない普通の生活中にちょっと口内炎とかできただけでも気になって仕方ないのに舌の半分を移植したんだからかなり大変だったと思います。
そんな時でも手術後のメッセージで「試しにコッソリしゅーちゃん(僕の事)って声を出してみたら上手く出来なくてひゅーひゃんてしか言えなかった」と告白された時はもう本気でキュンとなりました。

付き合いだしてからずっと彼女は僕のSNSをいち早くチェックしたがっていて、入院中でもそんななので気の毒だろうと
「あまり食べに行った時の写真とか見たくないよね?」と訊ねたら
「全然逆だよ!しゅーちゃんは今まで通りにやってて!その方が私は嬉しいよ?」と返事が返ってきました。
気を遣ったつもりが逆に励まされてしまい「なんて芯が強いんだろう」と内心驚きました。

SNSといえばfacebookに北信越リーグ時代に頑張ったサポーターのエピソードを紹介した時も「みんなしゅーちゃんのそういう所が好きなんだと思うよ。私にも教えて欲しいからいっぱい書いてね」と背中を押され
『どっちが励まされてんだかな』なんて事も。

その年の年末には自宅にも戻れて通院治療になり、2017年のはじめ頃からは職場にも戻れた彼女と以前のように食べ歩きやお出かけが出来るようになった日々は以前よりもっと二人が一緒に過ごせる喜びに満ちていました。


会話や食事はかなり不便になってしまったけど、また寄り添い大小さまざまなことを相談しながら流れる時間が心から愛しくてならなかった。
少し大袈裟かもしれないけど1秒も無駄にはならない貴い時間でした。

その時の様子は僕のこんな拙い文章ではまるで伝わらないかもしれないので、ご興味のある方は彼女のInstagramをリンクしておきますのでご覧になってみてください↓


しかし残念ながら時は僕たちを待っていてはくれませんでした。

秋ぐらいから好不調の不調のほうの深さが深刻になっていくのが再び入院した彼女のメッセージからも伝わってきました。
狭くなってきつつある気道を確保するために再び喉に穴が開きました。
どれほど彼女のつらさを分けて担えたら、と思ったことか…

年が明けた頃からメッセージもポツリポツリと間が空いて届くように、だけど内容は努めて明るく書かれていました。

そしていつもの年よりも暖かく早くに桜が満開になった2018年の4月。
恐れていた連絡が彼女の妹から届き急いで病院へ向かおうとした時、
自宅の近くの桜の木が前夜の強い風で折れているのが目に入り彼女に見せよう!と思いついてとっさに手折って持って行きました。
病院内をむき出しで持ち歩く訳にいかないのでレジ袋に入れて、病室に入ってから彼女の前で袋から勿体をつけて取り出して見せた時の不思議そうな顔からいつものようなパァっと明るくなった瞬間はいまだに忘れられません。

病室にて

翌日には学生時代の同級生たちが病室へ来てくれて、とりわけ仲のいい親友の娘さんが推薦で信州大学に通い始めているのを本人が報告したら、もう声は出ないから口の動きで『すごーい!』『おめでとう!』とあの笑顔で返していました。

一瞬『これだけ意識もあって会話もできるなら』と期待をする程の様子でしたが
翌日の午後家族と僕に見守られてかなちゃんは寝たまま、48歳での早すぎる旅立ちを迎えました。

僕たちが再会した頃に高校受験を控えていた一人娘は在学中に人生の目標を見つけて卒業後に専門学校へと進むことを決意し、まさに入学したばかりでした。

告別式には彼女の親族だけでなく、大勢の友人や2人で通ったお店の方も出席してくれ本当にありがたかった。
よくある話ですがそういう間は案外普通にいろいろこなせるのですが、そのあとひとりになってから半月ほどはストンと感情がオフになりました。
あれほど好きだった音楽もただの騒音にしか思えませんし、テレビをつけて目では見てるけど何も感じません。
その頃のことは今でも記憶をがあやふやで、半分脳みそをどっかに置き忘れてしまったかのようでした。
こんなじゃとても仕事にはならないけど、幸い会社側が僕の状況に理解を示してくれて復帰を前提に無給だけど長期休暇ができたのです。

で、時間はたっぷりあるけどその間も思い出すのは、やっぱり彼女の事ばかりで例えばまだ会話が出来た頃、娘の進路の話になり

「すごいねぇ、自分で自分のやりたい事が見つけられるなんて」「うん」
「俺たちの同じ年頃よりも全然しっかりしてるよな」「ははは、うん」
「ねえしゅーちゃん?」「うん?」
「私たちがもし初めて会った時に付き合ってたらどうだったかな?」
「ん?うーん…まあお互いガキだったからきっと上手くいかなかったんじゃないかなぁ?」
「うん、多分」「今で良かったんだよ。今になってで良かったんだよ」
「うん、そだね」
「こんなおじさんですがヨロシク」
「こんなおばさんですがヨロシク」

そんな他愛のない会話が懐かしくまた痛々しく浮かんでは消えます。
そういう時だけは感情が戻ってきて
『ただ一緒にいたいだけなのに。高望みなんかしてねーじゃん。なんでだよ神様の馬鹿野郎』
心の中がどうにもならない叫びで埋まります。

そんな風な自分に嫌になってとりあえず外で牛丼でも掻き込んで来よう、と出かけると
はしゃいでるでも何でもない家族連れの姿が妬ましくて妬ましくて、自分が惨めなゴミクズに思えてきて逃げ出したくなります。

酒でもしこたま飲んで気を紛らわそうとして酔いはじめたら不意に「誰かに迷惑を掛けたい。悲しませたい。俺だけが不幸だなんて嫌だ」とグロテスクな欲求が自分の中で頭をもたげてきているのに気付いて驚いて怖くて飲むのを切り上げました。

当時の自分のSNSを今これを書くために見返すとみんなを安心させたいから大丈夫大丈夫みたいな事ばかりカッコつけて書いてあるけど実際は全然大丈夫じゃなかった。

でもそこからは転落しなかったのも、やっぱり心にかなちゃんを思ったことで。
「もし仮に僕が先に逝ってたら、残ったかなちゃんにはどう生きてて欲しいんだろうか?」
そう想像したら泣き暮らしはしてて欲しくないな、と思ったんですよね。
ありがちな話で恐縮だけども。

そんな訳で友人から「シンさん早く立ち直れて強いね」という言葉を貰ったりもしたけどそんな訳で決して僕が強いのではなく(まだ)支えて貰っていたのです。

■それからの僕は

彼女の闘病の間足が遠のいていた山雅の現地観戦。
それまでスケジュールは空いてても、アルウィンには行く気にまではなれずにDAZNで観るのにとどめていました。
その気になれば歩いて行けるくらいの距離に住んでいるのに、やはり祝祭の眩しさに怖気付いていて行ってみたのは6月になってから。

メインスタンドで座ってみたら偶然前の列に来たのが彼女の叔母さん夫婦で、何を言おうか困った僕の顔色を見て「あらいいのよ!太陽の下にもっと出てきなさいな!」と言われたり、
また違う日にはたまたま近くに座った孫を連れてきたおじさんもまた癌で奥さんを亡くし、ふさぎ込んでいたのを山雅の試合を孫と観ることで活気を取り戻した、という話を後から聞いたりして、なんだか不思議ななにかに導かれている錯覚を感じたりしました。

試合では前年の水戸へのレンタルを経て戻ってきた前田大然がフィールドを1人だけ異次元のスピードで縦横無尽に走り回る、飽くことなきスプリントを目で追うのが楽しかった。
ザ・生命力!って感じの弾けっぷりに随分とパワーを貰いました。

そしてこの時期にもうひとつ不安定な僕の心を立て直す力をくれたのが同じく6月に発売された津村記久子さんの「ディス・イズ・ザ・デイ

国内の架空プロサッカーリーグの2部に所属する22クラブ、それぞれを応援するそれぞれのサポーターたちの物語が時に章を超えて交じりながら最終節へと向かっていく小説です。

津村さんの描く小説のキャラクターは特別な何かを持って生まれてきた人物じゃなくてクラスや職場の大多数にいる平凡なひとたち。
いわば脇役のポジションにある人たちだって悩みや苦しみ、生きづらさを押し殺して日々を過ごしてる。

ほとんどの章でそんな脇役人生を過ごしている人たちが主人公となり、スタンドの片隅から揺れ動く気持ちを込めて試合を見つめているシーンが多く描かれています。

この小説の中で大きな事件やどんでん返しはほとんど起きません。
くすりと笑える描写やあーあるある!という試合の日の様子に引き寄せられていると
やがてみんなが抱える屈託や日頃のつかえと向き合えるタイミングがスタジアム通いの中でゆるゆると自分の中で立ち上がっていく。

そんなストーリーが僕のこころに沁みてきてね。
なんか他人事じゃない感じっていうのかな、俺もゆっくりでいいから進んでみようか?って気持ちが生まれてきて

『よし、これ読み終えたら会社に連絡を入れてみようか』ってなったんです。
本当に本当にこの小説には力を貰いました。
翌年のヨコハマフットボール映画祭のイベントで津村さんにサインを書き入れて貰った本は宝物です。

そして運にも恵まれてこのシーズンの最後、山雅が優勝を決めた試合にも立ち会えました。
目前の試合はスコアレスドローで「無理だろ」と思いきや、からの優勝決定に驚き止まらない笑いと涙が溢れて止まりませんでした。


今まで生きてきてこんなに人前で堪えきれずに泣き続けた経験は物心ついてからは初めてだったと思います。
その時は山雅が優勝したことが嬉しくてここまで感動したのだと思っていましたが、当時の事をこのnoteに書いて読み直すうちに(ちょっと違うのかな?)と自分でも整理がついてきて。

誤解を恐れずに言えば「優勝、昇格そのもの」よりも
ただただ目の前のすべての人が全開で喜んでいた
もうアルウィン全体が歓喜の坩堝となったその風景。
それが僕の荒んだ心に水を与えてくれたんじゃないかな、今はそう思っています。

その日の帰り道、一足早くアルウィンを出て駐車場へ歩きながら
「俺また山雅に人生救われちまったなぁ」と内心呟いたのをはっきり覚えています。
僕にとっての山雅はなんだかそういう存在なんです。




■おわりに
上手くまとめらず長々と書いてきてしまいましたがもう少しだけ。

かなちゃんと出会って過ごした日々、
そして病を得た彼女の心を支えた日々の思い出は
決して消える事のない思い出であり
僕の人生で増やしてきた傷痕の中でも
特大の心の傷です。

5年経とうとしてる今でも疼いて堪らない日もあります。

見聞きした何かに触発されてその傷を触れてみるとロマンティックな気持ちが蘇ることも。

これはこの後も生涯消え去ることはないでしょう。
そして僕自身そうして傷痕を抱えて生きていきたいとも願っています。

わずか数年間のことだけど、
他の誰のものでもない僕の人生の特別な傷痕を。


最後の最後でボワっとしたイメージで自分の表現力の無さが悔しいんですが、今僕はそんなふうに思っているんです。


【最後の最後】
そんな訳で生涯のパートナーと思っていた人と別れてしまって一時はかなり落ち込みました。
ただ「僕はそれでも可哀想でも、惨めでもなかったよ」
「一緒に過ごした時に貰ったものはずっとここにあるよ」
という事ははっきりと書き残しておきたくてこのnoteを書きました。

なんてそんな風に書いていながら中々感情をコントロールするのが難しく、乱文気味できっと読み進めるのが難しい文章になってしまっているかと思います。
でも、もしここまで読みきってくれた方がいらっしゃるなら嬉しく思います。
ありがとうございました!

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