あるおじさんサポーターの独白〜傷は傷として・前編

■はじめに
なんだかぼわっとしたタイトルで申し訳ないのですが、これから書きたい僕のささやかな人生の一部を端的に書くとこうなっちゃうんです。

そういうプライベートな内容になりますが、どうしても文字として残しておきたい記憶がありまして、このnoteを書き始めた次第で
このタイトルは正直まだしっくりは決まってないけどとりあえずは話を先に進めたいと思います。

改めて「僕」はハンドルネームを澄山シンと言います。
この名前は「”サッカー旅”を食べ尽くせ!すたすたぐるぐる信州編」という去年発売された本に寄稿した時に『せめて名前ぐらいはシュッとさせよう』とひねり出した名前です。

この書籍の中で僕は現在J3で活動している地元クラブである松本山雅FCを社会人リーグ時代から応援している地元のおじさん、という枠で思い出語りをしています。
今でも日程の合う限りはスタジアムで観戦、応援を続けていますがこの書籍の中で語っていたのはもっと一段熱を入れてゴール裏で「チャント」と呼んでいる応援歌をリードするために真ん中で太鼓を鳴らしていた頃の話です。

それを実際にやっていたのは結構前、2011年までで、そこから離れた理由としては勤め先のシフト制が試合の日に合わず、現地へ行けない事が増えたことともうひとつ、自宅で二人暮らしをしている母親が認知性になったことで長い時間家を空ける遠出がし難くなったことからです。

これがどちらか一つなら工夫の余地もあるけど、重なってしかも一時的ではなくずっと続いていく、となると「今までどおりには活動できんな」という判断で最前線から退いたんです。
その判断は間違ってはなかったと今でも僕は思っています。


で、僕が応援の最前線からいなくなった後もご存知の通りチームはどんどんと躍進し知名度を上げ全国区になり、所属するカテゴリーも上げていきます。
それをちょっと引いた所から眺めるのは、今の手応えは少ないものの「このサクセスの基は俺らの力なんだぜ」ってなもんで各方面から褒めちぎられるのを面白く観察していました。

■「どうしようもない僕にも天使が降りてきた」

突然ですが皆さん、こんな経験や会話をしたことありますか?
『やけに今年は不幸が続くな』『また披露宴のお知らせハガキがきたよ』
不思議なものでこの手の内輪のニュースって続いたりしますよね?
2013年〜14年あたりの頃、それまでサポーターとしてや運営として、または選手などさまざまな場所で貢献してきた山雅の仲間からみんなへ結婚や出産の報告、ハッピーな様子がSNSで次いだ事がありました。
別に申し合わせた訳でも、山雅が念願のJリーグに上がって安定した位置に落ち着いた頃合いだから、でもないだろうでしょうけどもね。
謎だけどそういうもんです。

僕は、というとまぁこれまでの人生なにも起きなかった訳じゃないですが、ずっとシングルでやってきてるいい歳したオッサンで「もう今更惚れた腫れたでもねーだろ」と仲間たちのそういう報告にひたすらいいね!を押している側だったのですが・・・

2014年のある日、Facebookのメッセージボックスに繋がっていない女性から「スミヤマさんって学生時代に市営プールでアルバイトをしていましたか?」という謎の問いかけが届いていました。
アルバイトは確かにしていたけど、そんな昔の事自分でも忘れていたほどでそれをこの女性はななななんで?覚えてるの???
俺はもしかして何かとんでもない迷惑をこの人に掛けて都合よく忘れてるんじゃないか?
そうじゃなきゃこんな年数俺の名前とか覚えてるわけがない。
思い出せ!おれ!と少し焦りながらも記憶を掘りおこすと・・・

確か夏休みになると中学生の女の子たちのいくつかのグループがプールサイドに遊びに来てて、僕たち高校生大学生のアルバイトと話したりしててあまり目立つと職員さんから叱られたりしてたっけ。
多分その時の女の子のひとりなんだろうけど、全然覚えてない。

とにかくこっちはそのつもりはなくても『もしその時なんか迷惑を掛けたんなら謝んないとな』と恐る恐る返事をしたところから「まあ会ってみましょうか」となり、
途中は大胆に省きますがお付き合いをするコトになっていました笑

もう少し細かく彼女の話を頼りに過去を思い出すと初めて会ったのは1983年の夏。
中学生だった女の子は奏子(かなこ)、僕は高校を卒業し働き始めた年でした。
就職した後も休日は学生時代とさほど行動範囲は変わらず、アルバイトをしていたプールに遊びに行っては日光浴をしに行っては肌を焼いていました。
今は美白肌に人気がありますが、昭和の若者は夏はこんがり日焼けだろ!だったのです。

そんなある日に学校のお友だちが「あそこのプールにカッコいいお兄さんがいて会いに行きたいから、かなちゃん付き合って!」と付き添いで来た彼女が見た「もっとカッコいいお兄さん、いるじゃん!」(かなちゃん談)が僕だったそうです。

■「大人の恋」の制約?

さて、話を現代に戻します。 
会って話してみると、実は今回会う前に彼女は僕の存在を思い出していたそうです。

超地元紙の市民タイムスに僅か数行載った街の人に聞くインタビューで山雅のゴール裏でリズムを刻んでいる人として名前と顔写真を彼女が読んでいたそうで「スミヤマさんて、あの時のスミヤマさんなのかしら?ずいぶん変わっちゃったけど」と思っていたそうです。
そこから色々思い出して連絡をしてくれたんだとか。
中学時代からずーっと名前を覚えててくれたなんて驚きしかないですよね。

そんな風に十代のうちに出会ってはいたものの30年を経ておじさんおばさんになってから恋愛を始めた2人。
去年本屋さんで何冊か「ちょっと面白そうかな?」程度でまとめて買った文庫本の一冊に凄くよく似た設定があって驚きました。

中学校の同級生だった二人が時を経て大人になってから地元で偶然再会し寄り添っていくが・・・という小説で、あらすじや舞台になった都市、人物像などはリンク先などを見てもらうとして、描かれている場面や会話が「平凡な僕たち」が大人になっていく過程で否応なく味わってきた離別、挫折、家族のことなど「若い頃思い描いていた自分じゃない人生」がリアルさを持ってにじみ出ていて同年代のひとりとして共感するところが多かったです。

「だれかに話しておきたかった、って感覚。なんだろうね、この告白欲」
首をひねったら、須藤が訊いた。
「年齢的なものかな?」
「かもしれない。晩年感っていうかなんかそういうものがよぎることあるしな」

「青砥には充分助けてもらってるよ。青砥は甘やかしてくれる。この年で甘やかしてくれるひとに会えるなんて、もはやすでに僥倖だ」
「おれはもっとおまえのためになりたいんだがな」

こんな風に小説の中で主人公の2人が交わす会話は親密さを増しつつも内容はちょっと重めだったりもします。
僕たちもまた似たような会話をしていました。

かなちゃんは結婚をして子どもを授かっていたけど、離婚して実家に出戻っていてその子が大事な高校受験を控えている。
一方僕も自宅住まいで前述の通り認知性の母親と暮らしている。
二人がどんなに望んでも、二人が一緒に暮らす、というのは無理がありすぎるんですよね。
曲げなければならない筋が多すぎる。
少なくとも今現在は。

なので
「二人が幸せになるための可能性として入籍や同居は残しておくけど今じゃないよね」ってのが早いうちに僕たちが出した方針で「とにかく70になっても80になっても2人でよそ行きの格好してカフェや外食で寄り添う時間を楽しめるようにしようよ」というのが2人の未来のイメージになりました。

若い頃の「俺が俺が」の考え方だったら多分失敗していたはずだし、お互いの過去の遍歴に気を取られていて目の前の相手を見失っていたかもしれないけど。
年を取ってく間、思ってもない痛い目もみたけど、カドが取れてきた。
そんな周回遅れなタイミングで出会えたことがいい方向に助けあえる感じになったんじゃないかな?と思います。
年を取ることだっていい事あるんですよ。

まあ始めの頃はそんな内容のことを真面目に話すことが多かったけどやがて平日は「コンセントの穴が人の顔に似てる」とか、かなちゃんの家の犬と猫の「ぐりがきぃちゃんをまた追いかけ回してる」みたいなごく他愛のない話をメッセンジャーで朝から晩まで話して、週末は食事とドライブ。
そして月に一度松本にホテルを取って2人でしっかりお酒を楽しむのが恒例になっていきました。

こんな風に2人であちこち巡るうちに店にいた山雅サポの仲間たちとかなちゃんが打ち解けて女子トークなんか始めてる様子を見るのも、まるで今までの僕の人生になかった事でね。

2016年の誕生日、お蕎麦屋さんで


とりあえずは困らない安定した仕事と生まれ育った地元に一生応援できるクラブがあって、なおかつ気立てのいいパートナーまでできて「俺これ以上望むもんねえや」くらい僕は日々気分が落ち着いていました。

ちょっと長くなってしまったのでここらで一旦。

後編はこちら↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?