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トライアングル26(完)

終章 ハッピーバースデー <side カオル>


 忘れられない夏が終わった。
 いっぱい傷ついて、いっぱい悩んで、それと同じくらいの幸せも味わった。そして、誰かを好きになるっていうことの意味が、ほんの少しだけわかったような気がする。自分も相手も周りも巻き込んで、それでも思いを止めることができない。傷つくとわかっていてもやめられない。これからもきっといろんなことがあるんだろう。僕たちはまだ、わからないことばかりを抱えている。まだ、道の途中にいる。

 
 シアトルから帰って、すぐに学校が始まったが、僕たちの周囲は何も変わらなかったし、何も起こらなかった。僕たちのことがきっと噂になっているだろうと思っていたが、坂崎は結局、何も言わなかったみたいだった。トモと彼女のことは少し噂になっていたが、知らない間にそれも消えた。そして夏原は「お前たちのことを面白がって噂されるのは俺がガマンできないからな」と、ことあるごとに言っていた。きっと、彼が坂崎に何かを働きかけてくれたのかもしれなかった。
 それは、今後僕たちが一緒にいる限り、避けては通れない問題だと思う。たぶんそう、そんなに遠くない未来、きっと悩む日も来るだろう。でも、なんとかなる。なんとでもなる。トモや夏原のおかげで、僕は少し楽天的になったかもしれない。

 

 秋は駆け足で過ぎ、母さんが妊娠中で帰って来れなかったので、初めて二人でクリスマスを過ごし、年を越した。クリスマスは嫌がるトモを連れて、ケーキを買いに行った。プレゼントは二人で時計を買い、交換する時に、僕はちょっと感動して泣いてしまった。(ほんのちょっとだけど)年末は夏原と騒いで、そのまま初詣に出かけた。「コト始め」だと言って挑んでくるトモはますますエロくて、僕は新年早々メロメロになった。くっついていられるから寒い季節っていいよなあ、とトモは言う。僕ももちろんそう思う。
 毎日は穏やかに、そして淡々と過ぎ、季節は移り変わっていく。僕たちは、時にはケンカして仲直りして、抱き合ってキスをして、毎日を過ごしていた。そして、桜子から僕に連絡があったのは、三月も終わろうかという頃。季節は春へとゆっくりと歩みを進めていた。


「元気だった?」
 スマホの向こうから聞こえてくる桜子の声は明るかった。彼女に何かしてあげたいと思いながら結局何もできなくて、気まずいままに彼女が出て行った夏を思い出す。元気だよ、僕もトモも、と僕は答えた。
「智行は怒るかもしれないけど、あたし、どうしてもカオルくんに会ってもらいたいひとがいるんだ」
「彼氏?」
 そんなことが言えるくらいには、桜子は本当に元気そうだった。声だって以前よりずっと明るい。
「じゃないけど」
 桜子は笑った。やっぱり笑い声が楽しそうだ。
「カオルくんには本当に迷惑かけたから、もう大丈夫だよって知っておいてもらいたくて……けじめかな」
 絶対に行くよ、と言って待ち合わせ場所や時間を確認してから、僕は思い切って、トモがもう真実を知っていることを彼女に告げた。桜子には話しておくべきだと思ったし、今の彼女なら大丈夫なんじゃないかと思えたからだ。
 シアトルで玲子母さんに聞いた話を、僕はかいつまんで、だが真実がしっかりと伝わるようにと桜子に話した。彼らの両親と玲子母さんの関係。三人がそれぞれ抱いていた思い。そして、トモが「いつか桜子に会うことがあったら」と僕に言った、あの言葉。
「俺たちだって、ちゃんと愛ってのがあるところに生まれてきたんだ、って」「……ありがとう」
 黙って僕の話を聞いていた桜子は、最後にそう言った。
「うまく言葉が出てこないの。でも、本当に話してくれてありがとう……」
 桜子との約束を、僕はトモに正直に話した。今更、トモに隠し事をするつもりなんてなかったし、今のトモならきっと、ちゃんと理解してくれる。そう思ったからだ。
「じゃあ、俺も行くよ」
 トモはのんびりと言った。それは意外な答えだった。桜子に前ほどのわだかまりはないとはいえ、できれば会いたくないだろうと思っていたのだけれど。
「だって、あいつはカオルとやった、たった一人の女の子だし、やっぱり二人では会わせたくないからな」
 僕の真面目な思いとは違って、トモはとんでもないことを言い出した。
「トモっ!」
 怒った僕をひらりとかわして、トモは僕にキスをする。
 「妬いてんだから、わかってよ」
 そんなことを言われたら、完全に僕の負けだ。


 電車を乗り継いでバスに乗って、桜子に言われた場所を、僕とトモは訪ねた。海沿いの、病院みたいな保養所みたいなところ。街中からは外れるけれど、ほどよく静かな、居心地のよさそうな場所だ。
 バス停からの道は桜の並木道になっていた。満開になったらすごいだろうなあ、そんなことを話しながら、薄く色づく蕾をたたえたアーチをくぐっていくと建物の門が見え、そこに桜子が立っていた。
 トモを見た桜子は一瞬驚いたけれど、トモの表情が柔らかいので、前みたいに戸惑う様子は見せなかった。二人は軽く会釈を交わしただけだったが、それだけでも以前とは明らかに何かが変わってきていることがわかる。
「ごめんね、一緒だって言ってなくて」
 僕があやまると、
「ううん、会えて嬉しかったし……それに、智行にも会ってもらえるなら、その方がいいと思う」
 含みのある言い方をして、桜子は僕たちをとある部屋に招き入れた。大きな窓のあるその部屋からは外の桜並木が見え、カーテンが優しく風に揺れている。そして、そのひとは窓際のベッドに上半身を起こして座っていた。
「桜子ちゃん、お客さま?」
 そのひとに食事の介助をしていた女の人が、桜子を振り返って言った。
「はい」
 桜子が答えると、女の人はスプーンを差し出しながら、そのひとに優しく話しかけた。
「よかったねえ、沙織さん。今日はにぎやかだねえ」
 沙織さん?
 僕の無言の問いに、桜子は笑顔を見せた。
「あたしのお母さん」
 トモは何も言わず、ただそのひとを凝視していた。


 介助をしていた女の人が部屋を出ると、桜子は僕を彼女の方へいざなった。
「お母さん、このひとはね、あたしのお友だちだよ。とっても優しいひと」
 彼女は僕の方を見て、それから僕の後ろにいるトモを見上げた。トモや桜子と同じ、優しい茶色の瞳だった。僕は身を屈め、彼女と握手した。
「こんにちは、沙織さん」
 名前を呼ばれ、彼女はにっこりと笑った。大人としての意識を手放したであろうこの人は、少女の笑顔で僕に笑いかけてくれた。きっと、辛すぎることが多すぎて、心が壊れるくらいに苦しんで……でも、今の彼女は穏やかだった。幸せだった頃に自分を解放して生きている、そんな目をしていた。
「高校卒業したらね、ここで働きながら勉強して、そしていずれお母さんと一緒に暮らせたらいいなって思ってるんだ」
 桜子は僕の隣で、彼女の手をとって言った。桜子が側に来ると、彼女はより嬉しそうな笑顔を見せる。
「お祖母さまに聞いて、秋頃からここへ通うようになって……最近やっと、あたしのことをわかってくれるようになったの。先は長いけど……」
「居場所が見つかったんだね」
 桜子は満面の笑顔で頷く。寂しさを紛らわすために何人もの男と遊んでいた彼女は、もうどこにもいない。きっとこの場所を見つけるまで、彼女なりに様々なことを考え、選択したんだ。
「よかったよ。本当によかった」
 僕は心から嬉しかった。そして、僕と桜子のやり取りを、トモは黙って聞いていた。部屋の中にはゆるやかに風が流れ、僕たち三人と、トモと桜子の母親を、順に優しくすり抜けていく。言葉が途切れたけれど、誰も話題を探そうとはしなかった。


 やがて、帰る時間になった。これから沙織さんの昼寝の時間なのだと言う。僕は腰をかがめて、もう一度彼女の手をとった。
「さようなら、元気でね」
 彼女の微笑みを目に焼きつけ、トモに帰ろう、と促したその時だった。トモは僕の隣に身体を滑りこませると、じっと彼女を見下ろした。彼女もまた、トモをじっと見上げる。沙織さんは見慣れない人が苦手だと聞いていたが、トモからは目を逸らさず、じっと見つめ返していた。先に目を逸らしたのはトモの方だった。
「サヨナラ」
 唐突にそう言うと、トモは踵を返した。桜子の前を通り過ぎ、部屋を出て行く。僕はトモのあとを追い、桜子はそんな僕たちを見送った。


 もしかしたら泣いているのかと思ったけれど、振り向いたトモの顔はいつもと同じだった。
「父さんからLINE来てる、ほら」
 室内で電源を切っていたスマホを、トモは僕に見せた。僕も慌てて電源を入れる。今日父さんから来る連絡といえば、玲子母さんのことに決まっている。朝、陣痛が始まったと知らせが来ていたからだ。
 ーー女の子誕生! 母子ともに元気!
 僕たちはそろって歓声を上げる。通りすがりの人たちが、なんだろう、という風に僕たちを振り返って行った。
「やったね!」
「うっわー! まんまサルだ!」
 添付されていた画像は、父さん、玲子母さんと赤ん坊のスリーショットだった。父さんは泣きそうで、母さんはすごく幸せそうだ。
「なあ、今日俺たちの誕生日やらね?」
 トモが提案した。恒例の、三月末生まれの僕と、四月初め生まれのトモの、間をとった誕生会。
「いいね、ケーキ買って帰ろう」
「妹の分もキャンドルいるよな」
「バカ、今日生まれたんだから、いらねんだよ」
「そっかー」
 そんなことを話しながら桜並木の下をくぐる。満開の季節は、もうすぐそこだ。


 僕たちは、二つのケーキにキャンドルを立てて、それぞれ火をつけた。
 トモの『18』と、僕の『17』
「カオルは、いつも火を消す時に願いごとするんだろ?」
「知ってたの?」
「まーね」
 意味ありげにトモは笑う。
「今年はなんにするの?」
「そうだなあ……」
 今年は、願い事というよりも感謝かな? いろんなことに。
 僕たちは、それぞれのキャンドルに向き合った。

 ハッピーバースデー 今日生まれた僕たちの妹に
 ハッピーバースデー 十八歳のトモと桜子と、十七歳の僕に

 トモを産んでくれてありがとう。
 トモを育ててくれてありがとう。
 
 僕たちは、キャンドルの火を吹き消した。

 <完>

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