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四十九日。

昨日の午後、妹の家がお付き合いのあるお寺さんで、娘の四十九日法要を営みました。

正直、断固拒否、とまではいわないけれど私たち夫婦自体は特定の宗教の形で葬うことに抵抗を感じていたのですが、同居の姑をはじめとして、私の父や妹などが無宗教という形になじめなかったようで、知人のアドバイスもあり、彼らに落ち着いてもらうために、という気持ちで四十九日をすることを決めました。

しかし、我が家はかなり前に墓じまいも済ませ、付き合いのあるお寺もない。
そこで、去年母が亡くなって以来、何度か法事でお世話になった妹方のお寺さんに頼めないかと相談してみることに。
正直、宗派が違うのでどうかな……と思っていたのですが、事前に妹が話を通してくれたのもあり、快く引き受けていただけました。

身内の高齢者を何人も送って法事慣れしている妹にアドバイスを貰いつつ、参加人数の確認、香典返しやら献花やらお布施やらの準備をバタバタと進めました。

お寺と我が家は40kmほど離れているので今までは電車を使って訪れていましたが、姑が足が悪く長距離歩けないのと、前述の香典返しから花やら骨壺やらとこちらから持っていく荷物が多いので、レンタカーを借りて夫に運転してもらうことに。

葬儀の時は葬儀社の人の提案にイエス・ノーするだけでよかったのですが、今回は全て自分たちでしなくてはいけないので当日までずっと緊張しっぱなしでした。

そして、そんな準備の合間にも何度も訪れる後悔と悲しさの波。

一度などは特に酷くて、大波に身を委ねてしまいそうでした。

まあ、それでもまだ覚えている娘が逝ってしまった時の夫の嘆きや、今やっている仕事の関係者への迷惑、描いているものの続きを楽しみにしてくださっている読者さん、SNSで知り合った人たちがいることなどのおかげでこちらに踏みとどまれました。
なあに、急がなくても娘の五十回忌までにはあっちに行くでしょうし(苦笑)
それまでは、こっちでしか出来ないことをやりますよ。


そんなこんなで迎えた当日。
秋晴れの良い天気となりました。
お寺に着くと、境内で遊んでいた6歳と3歳の長男の子供たちが満面の笑顔で飛びついて来てくれました。
いつものように無邪気に抱っこと肩車をせがむ二人に
「今日はちょっとおしゃれしてるからごめんね」と座った膝の上に乗せるだけで勘弁してもらい、小さい身体を二人分抱きしめて、この子たちの幸せを祈りました。
何も知らずに大きな本堂に興奮して走り回る二人が眩しかったです。

娘が生前可愛がっていただいていた、妹方のお姑さんもお出でになってくださっていました。
ご挨拶をしながらも「つい三か月前の母の一周忌には生きていて、この本堂に居たのに……」と思うと嗚咽が漏れました。

そうこうする間にお坊さんが来られ、法要が始まりました。
宗派が違うということで俗名のまま、臨時の位牌を作っていただき、その横に骨箱を据えました。

お経を聞き、香を焚き、お経を唱え。
途中10分ほどの休憩の時には大黒さんがお抹茶を点ててくださり、この時もたった数か月前の法事の時に娘と一緒にこのお茶を配ってまわったことが思い出されて苦しかったです。
なじみのあるお寺ということでお願いしたものの、娘の記憶がありすぎて、良かったんだか悪かったんだか……。

ご住職が鷹揚な方で、チビさんたちに本堂の太鼓を叩かせてくれていました。
めったにない体験にはしゃぐ子供たち。
その音でなんとか悲しみに沈み込みすぎずにいることが出来ました。

「男の子はこんなもんです。走り回っても叱らなくて大丈夫。
ただ、追い出したりしないで、ここに居てもらうことが大事なんです」
と仰ってくださり、チビさんたちもひとしきり走り回ったらおとなしくしてくれていました。

1時間半ほどで法要が終わり、ご住職に今後の法要をどうするかを(主に姑に向けて)説明していただき「何も急がなくていいし、こうしなければということもないし、またウチでということならお引き受けしますから」何より大事なのは故人と自分への気持ちです。と仰ってくださり、姑も落ち着いたようで良かったです。
(同じことを私たち夫婦も前から言っていたのですが、やはり本職の方からでないと納得してくれなかったので……)


その後、参列してくれた人たちにお礼を言って解散。

やる前は結構心理的な抵抗があったのに、終わってみると意外にすっきりしている自分に気が付きました。

まだ「悲しい」はあるし、泣こうと思えばいつでも泣けるのは変わらないのですが。
泣く前に鳩尾のあたりに出来る、熱くて痛い、ぎゅーっとした塊が凄く小さくなっていました。
この日までも、少しづつ小さくなってきているのは感じていて「ああ、これが日にち薬というものか」とは思っていたのですが、法要が終わったら本当に小さくなっていて。

四十九日なんかやりつつも、お経はわけわからん音にしか思えなかったし、あいかわらず神様も仏さまも目の前にあれば手を合わせる程度のふわっとした信心めいたものしかないのですが。

なんだか、確実に。
少し、「死んだ娘」を手放せた感覚があります。

「死役所」みたいに手続きして成仏しちゃったようなあっけなさで。

それはそれで寂しいのですが。

もちろん、またこの先揺り戻しは何度もあるだろうし、苦しむだろうけれど。

そう言う意味で、私にとって四十九日は思った以上の意味を与えてくれました。


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