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また落ち込んだ、それでも外は眩しい

だれかを切実に希求しながらも、そのだれかが分からないからどうしようもない。こんな状態がずいぶん長く続いている気がする。おとといからまた調子が落ち込んでしまって何もできないので、それについて考えてみた。喉元にせり上がってくる偏重な意見をどうせならと吐いてみる。だだっ広い草原に空のペットボトルひとつ落としたところで、だれも何も言わないだろうから。

要はぜんぶ中途半端なのがいけないのだ。二十一歳、ぼくはあらゆる物事において中途半端だ。一生を捧げようとしている才能も中途半端、それ故それにかける覚悟も中途半端、結果それに対してまわりからくる反応も中途半端になり、それにつられていろんなものが中途半端なほうによってくる。人間関係だってそうだ。ぼくは友だちが少ないし愛想をふりまくこともできないので、その自然な帰結として比較的わりきった関係を築いてきたといままでは思っていたけれど、よくよく考えてみればほんとうに深い関係を持っている人間はひとりもいない。だから、仲良くしてくれる、あるいはぼくの存在を肯定する言葉を投げかけてくれる人々に対しても「ほんとうはぼくのことを面白くない、取るに足らない存在だと思っているんじゃないか」という考えがいつも目の前をちらついている。そして、悲しいけれどそれはたぶんほんとうだ。彼らはきっとぼくのことを勘違い野郎だと思っている。救いようのない、夢想にすがりついてばかりのマヌケだと思っている。夢を語るばかりでなんの結果も持っていない傲りにまみれた虫けらだと思っている。ぼくにはそういうものを感知する感覚があるから分かる。もちろんすべてが当たっているとは思わないが、いくらかは当たっているという確信がある。だからだれにも頼れない。苦しいときにそばにいてほしいと言える人がひとりもいない。

ぼくは決して人のせいにしているわけではない。ほとんどはぼくのせいだ。ぼくのせいではないとしたら、それは過去の人々であり、経験だ。それと現在のぼくを漠然と取り巻いている社会。それらとぼくのまわりの人々を同じものと看做したりはしない。それらに打ち勝てないぼくがいけないのだ。こういう意見に対してやさしい言葉を送ってくれる人もたまにいる。しかし、人間は結局のところ孤独であるという原理に立ち返った途端、それらはたちまちどうでもよくなる。実際にどうにかしなければいけないのは、だれのせいであろうが結局のところ自分だ。このやわな肉体という容れ物に入っているのはぼくだけである。他にだれか入っている、あるいは入れる余地があるのなら教えてほしい、なぜならぼくはこの意見を撤回せざるを得ないから。「あんまり自分を追い込まないで」という言葉ほど空虚に響くものはない。

将来の自分を想像してみようとする。なにも思い浮かばない。だれといっしょにいるのか、なにをしているのか、どこにいるのか、なにを感じているのか、どれについてもさっぱり見当がつかない。ぼくの憧れたロックンロールスターたちが言っていたような確信は、ぼくには到底手の届かないところにある。何者かになれるはずという儚い願望と、それを追い越すような勢いで膨らんでいく承認欲求とは対照的に、まったくの凡人である自分との差にぼくは立ち尽くすより他にすべがない。そして、ぼくの肉体の外側で渦巻く物事がぼくの顔面に拳を入れ、倒れこんだところに容赦なく追い討ちをかけてくる。ぼくというちっぽけな存在をなぶり殺しにしてやろうと、それは一種の執拗さを持って殴ることをやめない。結果的に、ぼくはいまみたいな、言うなれば動く死体になる。結果が出るとも分からぬものに時間をかけて、一体何になるというんだろう?だれかが耳元で囁きつづけている。

小説に自分の居場所を見つけようとしている理由のひとつとしては、言語がぼくにとって武器になるかもしれないという曖昧な感触をこれまでの人生で得たからだ。しかしそれが正しいかどうかはだれにも分からない。正しいというよりかは、もっとも効果的で、効率的かどうか。もっとも効果的で効率的であるものがぼくにとってもっとも良いものなのかと言われれば、答えに詰まるがぼくという人間の悲観的な側面に言わせてみればそうであるに越したことはない。ここまでなんの芳しい結果も得られないで生きていると、やはり何か自分の存在を肯定してくれるような社会的報酬が何よりも重要になってきてしまう。わかりやすければわかりやすいほど、ぼくにとってもそれはわかりやすいのでなお良い。そういう形式的なものに拠りどころを見いだすのは馬鹿げていると思うかもしれない。しかしいまのぼくにとっては、それこそがどこかから引用してきたような綺麗事、というか馬鹿げたことに聞こえる。こんなぼくをつくり上げたのはぼくであるとともに、このまったく訳のわからない社会だ。ぼくは前に進むために足を前に動かす。それでも、実際に前に進めているのかどうかは知覚できない。もしぼくが逆向きに稼働するベルトコンベアの上にいたら?底なし沼に身を沈めているとしたら?すぐ先では道が途切れて切り立った崖になっていたとしたら?

停滞している感覚が、ぼくをどこまでも嫌な気分にさせる。面白みのない家族、環境、人々、日常。美しさはそういう凪のような日常を繰り返すことによって浮かび上がってくるという。しかし正直に言って、ぼくの精神の半分はもうそういうものに心底うんざりしている。だれもぼくに期待していないし、ぼく自身もぼくに期待なんかできない。狭い溝に落ちて身動きが取れなくなっているような、抜け出そうともがくが日が落ちるころになってもなにひとつ変わっていないような、そんな日常。ベランダから見える木々の葉擦れの音だけが、ぼくを一切の苦しみなしに集中した状態に導いてくれる。しかしそれもつかの間のことだ。完全な救いなんかあったものではない。ぼく自身がそれを求めているのかどうか怪しいところだが。

ここ一週間くらい、まともに眠れていない。日が変わるころにベッドに入っても二、三時間は意識が覚醒している。それゆえ起きるのはお昼間近の十一時ごろ。このすっかりだらけた生き物はなんだ?かつては規則正しい生活を意固地になっても守っていたのに、いまじゃ眠ることさえできなくなった。何かがぼくの手からすり抜けようとしている。大学を休んでまで、ぼくは一体なにをしているんだろう。

ベランダから下を行き交う人々を眺めていたら、何箇所も蚊に刺された。もうそんな季節なんだ、と思った。夏はすぐそこまでやってきている。それがわかるだけ、自然のサイクルはずいぶんマシだなと思う。

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