#3 『それから』—私はこれを悲劇とは呼ばない

 菫乃夜です。

 忙しくて更新をサボっておりました。とはいえど元々さして良い文を書いているわけでもないので、今回もそれなりにだらだらと綴っていこうと思います。

 第三回は、漱石の『それから』です。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A4%8F%E7%9B%AE-%E6%BC%B1%E7%9F%B3/dp/4101010056

 きょうび漱石を読んでる人もそんなにいないと思いますので、概略から話します。ざっくり言えばこの『それから』は、「友人の妻を寝取る話」です。

 ……ざっくりが過ぎました。

 いえ、まぁ何も間違ってはいないのです。大筋としては本当にそれだけの話なのです。だからこそ、この小説で面白いのはそういった話の展開よりもむしろ、其処へ至るまでの微細な状況や心情の変化にあります。

 親の金でぶらぶらと暮らす代助。彼には想い人の三千代を親友に譲った過去があった。それから十年ほどが経ち、落ちぶれた親友が三千代を連れて代助の元に現れる。親友の支援をするなかで再び三千代への思いを募らせていった代助は、ついに想いを成就させる代助だが、当然周囲はそれを許さず……一通りの人に縁を切られた代助は、三千代が病で倒れている中で、ひとり職を求めて街へと彷徨い出ていく……

 あらすじで言えばこんな感じです。もっとも、代助の親友と三千代との仲は完全に冷え切っていて、現代だったらほぼ確実に離婚しているような状態なので、そこで家族にすら「絶縁」とまで言われるのは今の感覚で言えば若干やりすぎなのでは…?とは思わなくもない所です。

 なので漱石はそういう「自由な感情」よりも「旧時代的な道徳観」のほうが重要視されている状況に一石を投じるためにこの小説を書いたんじゃないか、とはよく言われていることですし、実際「自然」という言葉は「自由」と同じような意味で作中に何度も繰り返されます。

 逆に、それくらいの目的意識を持って書かれた作品だというのに、結局代助は社会の波にのまれていってしまう。漱石ほどの文豪であっても容易に覆せないほどに、この社会の道徳観と言うものが協力・高圧的だったという証左でもあります。

 そういう経緯で、悲劇、という評については、まぁ納得できる部分であります。(何なら三千代も死んでしまうのでは? と読めるくらいですし)

 ですが、『それから』が完全に悲恋ものか? と聞かれると、私はちょっと違うかな? とも思ってしまうのです。

 少なくとも「代助」という男にとっては、これは悲劇ではないのでは?

 というところです。(異論は認める)


 順に説明します。

 まず、この「代助」という男は所謂「金持ちのボンボン」なわけです。親が大層な金持ちで、まぁ代助一人程度なら養えるくらいの財力は抱えております。作中でも、代助が政略結婚さえしてくれればその後の面倒は見てもいい、みたいな話もありました。

 そういうわけで代助は30を過ぎてもなお一切の労働をしたことがありません。「食べるために働く」という感覚は彼には備わっていないわけです。

 いっぽう彼の周囲を見ると、労働によって人生が歪んでしまった人ばかりが溢れている。親友の平岡は仕事で没落して、家に帰らず付き合いの飲みにばかり出ている。知人の寺尾は売れない作家を名乗りつつもあまりに売れないせいで他の仕事で食いつないでいる。そして代助の親や兄は、表面的には何もないようで、実は仕事でそこそこに危ない橋を渡っており、がさ入れでも喰らおうものなら会社が倒れかねない。

 こういう事情で、彼は「食べるために働く」という行為はなにかしら人間を壊してしまうものと信じ込んでしまいます。

 さらに質の悪いことに、彼にはあまり物欲がない。

 金があればあるなりに使うものの、じゃぁ実際に何か欲しいものがあるかと言えばそういうわけでもなく、金がないなりに暮らせてしまう。それじゃぁ金を稼ぐ目的があったもんじゃありません。

 それこそ『羅生門』の下人位追い詰められたら話は別でしょうが、代助は消極的な餓死程度ならしてしまえるくらいの危うさ、無欲さがあります。

 とかくこういう理由で、代助は働きたくないし、働く意義も見つけられない。

 しかし一方で、彼はそういった「働けない自分」に対してどこか劣等感を持っている節もあります。

 なまじ半端に頭がいいから、彼は余計なことを考えて苦しんでしまう。生の実感はなく、いつも死に怯えている。

 そんな彼は、心の奥底で『働くに足る理由』を探していました。そこに現れたのが三千代です。

 三千代は、夫からの愛をほとんど失っていた。家には金がほとんど回って来ず、それでいて持病の為に金ばかりかかる。そういう状況を打破しようにも、当時は離婚とかそういったことにひときわ厳しい世の中でしたから逃げることもかなわない。

 そんな彼女を、代助は「救いたい」と願ってしまいます。なにしろ親友に三千代を周旋したのは代助なのですから、彼には責任があるわけです。その責任をとらねばならない。それに代助には他の人と違い、元々失うものなど多くない人間でした。

 そうして代助は、僅かに持っていたものを全て捨て去り、険しい社会の中に飛び込んでいくのでした。

 ……そう、代助はそこに至って初めて、人生の動機を得ることが叶ったのです。故に、例え世間からは後ろ指を指される状況になっても、代助にとってはそれすら、愛する女を守るために世間に立ち向かう英雄譚のようなものにこそなり得ます。今ここに、彼の三十年余りのモラトリアムは終わりを迎えたのです!

 ……などと言うのは、だいぶ個人の解釈が絡むものなのですが。

 このあたりの話は、正直こんな二千字程度で書ききれるほど簡単なものじゃないので、まぁそれはいずれ別の形でものにするつもりではありますが、それはそれとして私が語りたいのはざっくりこういうところです。

 そうして考えます。果たして人生の動機というものを、人は持ちるのだろうか? と。

 正直なところ、こういう筋は、代助が「高等遊民」だから成立した話であって、それは現代でも大して変わらないと思っています。つまり、「食べるために働く」以外の動機というのは贅沢に過ぎない、と

 どうやったって生きていく以上の収入を得るのは難しく、そして賃金が時間・労力とのトレードである以上は「欲しいもの」を得ることもあまり現実的ではない。そんな状況で、「死なない」以上に何を動機にし得るんだろうか?

 漱石がそこで現実離れした理想郷を描ききれなかったように、消費社会になってからこの方、どうにもそこが越えがたき命題であるように思えて仕方がありません。そういう意味では、代助はある種幸福な側の人間なのだな、と言うのはなんとなく思っていることです。

 生きる動機というものが簡単に見つかる世の中になることを切に祈っております。


 ……とまぁ妙なことを綴ってきましたが、それとは関係なく『それから』は普通に面白い作品だと思います。ちょうどこのあたりの作品は現代の「恋愛小説」と通じるところもあって、そういう意味ではとっつきやすいですし。

 今は青空文庫で全文を読むこともできますので、気になった方はさわりだけでも読んでみることをおすすめします。

 以上、久方ぶりの菫乃夜でした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?