見出し画像

出会ってくれて、

 午前九時。雨音が窓の外から聞こえてきて、傘がないことに気づいた。それを「ま、いっか」のひとことで片付け、瞼に蜜柑色のアイシャドウを纏わせる。少しの間、街で暮らすことになった。はじめての街暮らし。人の多さや聳えるビルに、毎日ドキドキさせられる。少しでも見たことのある街並みにしたくて、今私は、冒険に出かける支度をしている。

 午前十時。アスファルトには、ほんのりと湿り気が残っている。もう雨はどこかへ行ったようで、「傘はいらないよ」と囁かれた気がした。
 耳元の“花占い”が、私の背中を押す。くだらない話。混じりあわない日々…私よりも二十センチ高いあの背中を、ほんのちょっと思い出しただけなのに。六割の愛おしさと、残り四割の寂しさで、胸がいっぱいになった。スーパーに行くみたいな口調の「ずっと一緒にいようね」が聞きたい。本当は重い、そのぬくもりに触れたい。この路の果てには何があるんだろう。そんな歌詞が、私の足を駅から遠ざける。今なら、どこへでも歩いて行ける気がした。

 午前十一時。喫茶店を目指していたはずなのに、見慣れぬ橋を渡っている。完全なる迷子。でも、地図アプリを開くことを私は躊躇っている。一度行ったことがあるし、“なんとかなる”はずだから。…母の口癖だと、自然とマスクの下で口角が上がる。「道は繋がっている」父もそう言っていた。ひっそりと、じんわりと。私のなかには、両親の想いが隠れている。それらは、ふとした時に私の前に現れてみせて、「大丈夫だよ」と耳打ちする。そして、私を少しだけ強くする。

 正午。約一時間彷徨い、辿り着いた喫茶店。カフェインレスコーヒーをひとくち。“安心”の二文字を思い出す。地元から遠いこの地で今、私が頑張っていられるのは、溜め込みがちな友人のおかげ。不思議な魔法にかけられたように、話せないことも気づいたら話せている。なんでだろうね?今度は、そんな話もしてみたい。よく話す「自分とは」なんて哲学めいた話。どれだけ話しても、答えが出ないけれど、話している時間が心地よくて、私にとっての“安心”なんだと気づかされる。不安もトキメキも分かち合う、あの時間が私は大好きでたまらない。彼女は今、どうしているだろうか。溜め込みすぎてないだろうか、心配がこもった指先でLINEを開く。

 午後一時半。今日は歩くんだと決めたから、電車を横目で見ながら、目的地へと足を進める。今度のところは、はじめましてだから。慎重に進まねばならない。地図アプリは、丁寧に目的地まで二十分だと教えてくれている。さっき一時間歩いたから、二十分なんて余裕だ。大丈夫、地図アプリも私の味方をしてくれているから、迷うことはない。「ほんと、抜けてるんだから」と大好きなあの声に笑われることもない。

 午後二時。行きたかった目的地の古本屋は臨時休業。だから、また二十分くらい歩いて、別の古本屋へ。太宰、ユゴー、啄木、團伊玖磨…本屋に行けばどの時代の、どの国のみんなにも会える。会いたかったよ、と指先に想いを乗せながら、私は一冊、一冊と触れていく。……ふと、呼ばれた気がして振り向くと、そこには『資料による近代日本文学』。ありがとう、呼んでくれたんだね。心のなかで、感謝を伝える。そっと、本棚から取り出し、ぎゅっと抱きしめる。レジに向かうと、老店主が私に微笑んだ。そして、本に向かって「良かったな…大切にしてくれそうな人に出会えて」と呟いた。「大切にします」と私も微笑む。老店主はそんな私を見て、なんだか泣きたくなるくらい優しい顔をした。

 午後三時。信号待ちで一緒になった老婦人。目が合ってお互いに微笑んだ。「ここの信号、長いのよね」と老婦人は言ったけれど、そのおかげで会話が進んでいく。別れ際、柔らかな声で老婦人が言った。「明日からまたお仕事頑張ってね。応援してるわ。きっと大丈夫よ」ほんの少し、話をしただけ。知り合いでもなんでもない。それなのに、老婦人は私に明日へのエールを贈ってくれた。老婦人の優しさが、ひたひたと私の心を満たしていく。ほんの少しの出会いと柔らかな優しさに、私は助けられている。日々は、その積み重ねなのかもしれない。

 午後四時。秋めく街角で、老店主のそっと古本に触れる手。慈しむその手。そして、見知らぬ私にも麗かな優しさを贈ってくれた老婦人を思い返す。私も彼らのように、出会ってくれた人々を優しさで包み込めるようになりたい。見上げる空は、少しずつ茜に染まっていく。少しだけ見たことがある、になった街並みが私に「大丈夫」と言う。決意を込めて、大きく一歩。

 一人街を歩くと出会えたのは、私と出会ってくれた大切な人たちを想う時間だった。出会えたことに心からの感謝を。

 「私と出会ってくれて、ありがとう」


この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?