自分≒他人だと思うと卑下をやめたくなった話。
こんにちは、スミレです。
過去の記事『自虐の才能の使い方』に重なる部分もありますが、タイトルの通りに書いていきます。
私には、何かにつけて自虐、あるいは卑下の方向に思考を突っ走らせてしまう癖があります。「自分はダメなやつだ」と思わない日なんてありません。
自分の嫌いなところが、まあ、たくさんあるんです。メンタルを守るために速やかに忘れるか、「別の場面では上手く活かせる特性かもしれないだろう」と自分を慰めにかかることが多いです。
ただ、一回その流れが始まると、一瞬で激流に変貌するからとても厄介。必要以上に自分に非を負わせて、泣くか泣かないかというところまでいきます。
こういう悩みに対して「人と比較するのが良くない」などと聞くことが多い印象がありますが、私には効かない薬でした。
そもそも、人と比べることが悪いことだとは思っていません。単に比べることと、優劣をつけて見下すことは全く違うことだと考えています。
自分のこういうところを改善したい、この苦手をどうにかしたい。そういう前向きな気持ちがある時は、むしろ人と比べた方がいいのではないか、とすら思っています。なんというか、生ける教科書、みたいな?
おそらく「人と比較するのが良くない」とアドバイスしてくれる人は、優劣をつけないで、という意味で言っていたのかもしれませんね。
で、本題ですが。
私が困っていたのは、自分に対して優劣をつけては卑下してしまうことです。いつの間にかそっち方向に急カーブしてしまうから、「あ、今の卑下だったわ」と気づく頃にはすっかり傷ついているのが常です。
実は昨晩もそうなっていたのですが、今回に関しては良い気づきを得られました。悩んで眠れない夜もたまにはいいもんですね。
その良い気づきとはタイトルの通り、自分≒他人かもしれない、という気づきです。いや、別人ではあります。自分は自分だし、人は人だと思っています。
つい最近にも、よく話していた知人が自分とは綺麗に真逆な価値観を持っていたことに気づいたように、自分と他人は違うものです。得意も、苦手も。
ということは、ですよ。同じとまではいかなくても、自分と似通った他人だって存在するものだと思ったのです。
思ったというか、灯台下暗しだったというべきか。
それこそHSPとかあがり症とか、「生きにくい、しんどい」を感じるポイントが似通った人間ってたくさんいたでしょう?
逆に「これが好きだぜ!」のポイントが似通った人間だってたくさんいる。
共同運営マガジンだって、志を同じくするnoterの集まりでしょう?
意外と、自分≒他人だなぁ、なんて思いまして。同じなんだか違うんだかよく分からなくなりますが、人間とはそういうものだとカッコつけて解決としますね()。
さて、それを踏まえた上で、卑下の話に戻ります。
自分を卑下するということは、もしかしたら他人をも見下すということなのかもしれない、と考えついたのです。
だって、「自分のココが嫌い!」の「ココ」って、他の人も持っている。
「自分のココが嫌い!→自分が嫌い!」って「あなたのココが嫌い!→あなたが嫌い!」になる可能性、めちゃくちゃ高くないですか?
それは、いやだ。私には「なりたい自分像」があります。
誰に対しても寛容で、目の前の人にとっての居場所になれる、暖かい人間になりたいのです。どう表現すれば良いのか未だに模索中なので、言葉はコロコロ変わるかもしれませんが、中身は変わりません。
自分を卑下するということが、共通点を持つ他人すらも傷つけることになるとしたら、それはいやだ、もう卑下したくない。だって「なりたい自分像」からどんどん遠ざかってしまう。
……今気づいたのですか、自分が自分の一番の味方になるって、そういうことなのかもしれません。
高校での探究活動で「私が私の味方をしないでどうすんだ、ポジティブにいこうや」と考えついたことがあるのですが、今になってやっとその手がかりを見つけました。う〜ん、今更すぎるけど、見つけられたからヨシ。
じゃあそうすれば自分を卑下しなくなるかって?
そんなこと、私の方から聞きたいですよ()。
……失礼、冗談はさておき、これから自分なりに探していきますよ。
本記事は「卑下って多分、良くないよね……?」から「自分≒他人だから、卑下をやめたい!」に進化しただけの話です。
「なりたい自分像」に少しでも近づけるように精進いたします。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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