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訥々と嘆く口癖そのままに私の幸せ私の手の中

〇〇はいないと言われほっとしてどこにいるのと何度も聞いた

お星様になったんだよと彼女は言うそんなにケロッと「お空にいるよ」

日常にただその人が初めからまるで存在しなかったように

〇〇は脳が腐って死んだよと世間話をするかのように

救急隊家に来た音で目が覚めた息子が一緒に付き添って乗った

心拍が戻ったけれど次の日に「延命措置はしなくていいです」

葬式はせずに直接火葬場へこんなとこでもSDGs

ワンちゃんが死んだときのが悲しんで線香あげて葬式してた

部外者が絶対言えない「どんなことあっても世界で一人の父親」

相続の放棄をするにも面倒で今後のことの方が心配

死んだあと解約してない携帯にホラーより怖い着信アリ

私だって大人になったよ困ったら何でも言って、相談してね


伯母たちは、市内から少し遠い、従兄弟の家で年越しとお正月を過ごすそうだ。

「〇〇(従兄弟の父)はいないよ」
「どこにいるの?地元に帰ってるの?」
「お空の星になったよ」

こんな悪い冗談のような会話で、伯父が亡くなっていたことを知った。1ヶ月と少し前のようだった。

自宅の庭で倒れていた彼を見つけたのは、お隣さんだった。
家に誰かが大勢入ってくる音で目覚めた息子が、救急車に付き添った。
蘇生で心臓が再び動き出したが、次の日には亡くなったそうだ。脳の病気の突然死だったらしい。検死のために撮ったCTで、癌もあったことがわかった。

彼にはギャンブルのためにできた借金があった。妻の生命保険は知らない間に解約され、解約金を使い込まれていた。
その話を聞いたのが一年前だった。私は離婚を勧めたが、息子と2人だけでは生活していけない(住むところがない)ことを理由に、一緒にいることを選択していた。
まだ繋がるようにしている彼の携帯には、毎日、債権回収会社の番号から電話がかかってくるそうだ。

借金のために相続放棄を選べば(選ぶしかないと思われる)、結局、家も土地も手放すことになる。それなら早い方がよかったのではないかと思ってしまう。母と息子2人で住む家なんて、どうにでもなるのに。

私が伯父に最後に会ったのは、小学生の頃だった。伯母たち4姉妹が言う彼の悪評に、怖く、会いたくない気持ちばかりが募った。

あんな、幸せの権化のような綺麗な一軒家を建てて。息子も妻も犬もいて。
ギャンブルに逃げなければ安心できない、居心地の悪さが家庭にあったのだろうと思わざるを得ない。どんなに寂しかっただろう。パートナーとなるなら、どちらか一方だけが悪いことなど一つもないはずだ。人を愛するということは、最後まで責任を取り合うということではないのか。

不仲な夫婦の旦那が先に死んだら、こんなことになるんか???怖すぎる……
妻に死因を「脳の病気」としか記憶されず、脳溢血か脳梗塞なのか、くも膜下出血なのかすらわからない、彼が親戚付き合いを嫌っていたという理由で姪にあたる私にすら亡くなったことも知らされず、通夜も葬式もなく、病院から火葬場へ直送、死んでも悪口を言われ続けるんだ……。

私の反抗期は長かった。母に話しかけられても、ずっと無視していた。そんな反抗期があったから、大人になった今、親孝行「しなければ」という気持ちが強かった。
けれど、今、また、話せなくなっている。話さないのではなく、無視しているのではなく、話せない。思い返せば、幼稚園に通い出した頃は慣れている人以外と話せなくなる、場面緘黙症の子供だった。そして思春期の頃は、母を傷つけたくて無視していたのではなかったか。

その逆で、今、感情のコントロールが上手くできないから、誰も傷つけないように黙っているのかもしれない。あと何回親に会えるかもわからない、私だってもういい大人なのに…。 母に返事ができないなんて、こんなことをもし友人が話していたら私は引くだろうし、説教じみたことも言うかもしれない。幼稚な自分がほとほと嫌になる。いつまでも反抗期?情けない……。

ちなみに、母方の伯母姉妹は母も漏れなく全員、夫を悪者に仕立て上げるタイプだ。酒飲みで女癖も悪かったらしい父親(私から見ると祖父)との関係性がもろに出ていると思う。
恋愛は親子関係の再演だとつくづく思う、そうやって追体験しながら、自分の母親の人生を理解していくのだと私は思っている。母親の気持ちというのは、自分の人生を犠牲にしてでも理解したいものなのだと。

帰省3日目にして家でご飯を食べなくなり、急に話さなくなった私の態度に、母は「むかつく」「気を遣う」と呟いた。そうだよね、わかる。私だってこんな娘がいたら嫌だもん。
私が話さなくなると、母は何も言わなくなる。私が黙ってしまうのは、こんな分かりやすい理由だったんだ。

大好きな人が死んだとき、すごくすごく悲しかったから、「死にたい」と思ってはいけないと幼い頃から思っていた。
私はずっと死にたかったんだ。なぜ自分が存在するのかがわからなかった。自分を形作る半分である父を否定されるのは、「死ね」と言われるのとどう違うのだろう。
実家でご飯を食べられなくなるのも、生きることへの拒否なのかもしれない。

社会人になって自分が作り上げた基盤のある、東京(もっと言うと池袋)へ早く帰りたい。目に見えるものでも見えないものでも、安心できるものがたくさんあるところが帰りたい場所なのだ。
何に焦点をあてるかで、人は幸せにも不幸せにもなる。光と影はどちらも存在していて、何を見るかだけだ。こんなに情けない私も、昼にドヤ顔で講演会をこなす私も、夜にゴールデン街に立つ私も、紛れもなく同じ「私」という人間だ。

大晦日にこんな地獄のような日記を書いていたって、私はかなり恵まれた環境にいる。帰る実家があることもそうだし、両親だって生きている。大学院まで通って好きな勉強をし、それを生かした仕事に就き、仕事以外のコミュニティもあり、一人で安心して生きていくことができると感じている。それはただ運がよかったとしか言いようがない。周りに恵まれ、努力をして、それが認められる環境に身をおいてきたのだから。

「早く帰りたい」と呟きながら、居心地の悪い実家にいても、私の幸せは、ずっと変わらずに私の掌の中に握られている。
いよいよしっかり握るのだ
この生きの苦しみ
苦しければ苦しいほど
自分は光を握りしめる



父ちゃんは
生まれる前から決めていた
息子の名前はリョウタにしたい

目に浮かぶ
20年前正月に
息子と手繋ぎ凧揚げしてた

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