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Ⅱ ちいのに Tottori − Uganda

2010年

 鹿児島を出て鳥取大学の隣のアパートへ引っ越した。目の前は田んぼと池だった。鹿児島よりも小さな街だ。

 大学の周りには、居酒屋とゲオとコンテナのカラオケ屋くらいしかなかった。工学部には、パチンコと麻雀にハマって留年する人が多いらしいという話を聞いた。何もない環境だと、人ってそうなっていくのかなとぼんやりと考えていた。

 鳥取大学前駅と2駅離れた鳥取駅の間には、畑と田んぼが広がっている。オレンジ色の山陰本線は電車ではなく汽車といった。全て電気で走っているわけではないという理由らしい。

 よくある大学生活のように、男女関係なく仲良くしたいという思いがあったのだろう、同じサークルの人たちと、ドラマ「オレンジデイズ」の真似をして、図書館の本棚にノートを置いて書き込みをしていた。

 『夏休みに帰省してみて、自分のいる土地は鳥取なのだと実感した』と書いていた人がいた。意味がわからなかった。焦りにも似た感情だった。私にも、そんなことを感じる日が来るのだろうか。ノートは、3カ月ほどで何もなかったかのように私たちの中から消えていった。

 あの図書館の、パネルを操作しないと開かない、誰も来ない書庫の片隅に、今でも残っているかもしれない。

2011年

 鳥取でなんの揺れも停電もなく、3月11日を過ごしていた私は、東側に住む人よりも、ずっと他人事だっただろう。1つ下の学年の後輩や、浪人している友人たちがちょうど受験のときだった。ショックで受験できなかった後輩、試験実施を信じてなかなか帰って来れなかった友人もいた。

 当時、津波の映像こそ繰り返し見ていたけれど、そのときの私は、何も理解していなかった。次の年にアメリカで見ていたニュースには、日本では絶対に流せないであろう、被災地の本当の姿が映っていた。カメラマンの人は、どんな気持ちであの映像を撮ったのだろう。あの押し寄せる水の下で何が起こっていたのか、水が引いた後の情景に、自分の想像力の乏しさに頭を殴られた気分だった。

 大学の先輩は、被災地から出た廃材を利用して作られた本棚を販売し、収益を被災地への寄付に回していた。先輩の行動力に引っ張られる形で、私もいろいろなことに挑戦を始めた。自分から動こうとすると、自分の味方になってくれる人の境界線がどんどんと広がっていった。バイトを始めたことが、私の人生を変えた。何もないと思っていた鳥取に、何かが生まれ始めていた。

 ちいちゃんに会いに、新宿に行った。いつも待ち合わせをする、南口の改札への行き方だけ頭に入っている。今日は花火大会でもあるのだろうかと、東京に来るたびに思った。

 ちいちゃんは鳥取のことを授業で扱うこともあるらしかった。私は鳥取で、海外での農業について勉強していた。ちいちゃんは東京の大学で、鳥取の地方創生のことを勉強していた。新宿を自由に歩き、私を案内してくれる彼女に、憧れていた。

2012年

 一年のうち、私が帰省できるのはせいぜい、1カ月程度だった。母が生きていられるのはあと何年だろう。80まで生きるとしてもあと25年。25カ月。私に残された親との時間はもう、あと2年ちょっとしかないんだ。そんなことを考えては、同じく実家を離れている友人と盛り上がった。
 鳥取には山も海も温泉も、天の川も、なんでもあった。寒い夜にアパートを出て、畑の前の道を歩いた。流星群の季節でもないのに、見上げた夜空にはひとつ、流れ星がゆっくりと流れた。初めて、流れ星は本当に流れるということを知った。

 主体的に動かなければ何もない鳥取に、教えてもらった。自分で楽しみを開拓していく面白さ。楽しみを見つけるごとに、自分を発見していくような気分だった。

2014年

 ちいちゃんは、ウガンダへ渡航する私のために、仲の良い友人からの寄せ書きを贈ってくれた。荷物にならないように、帽子の内側に書いてくれていた。その頃西アフリカでは、エボラ出血熱が流行っていた。ウガンダ国内で1人でも出れば、強制帰国と大学から言われていた。

 ウガンダに来て半年は、毎日のように泣いていた。クラスの中で一人だけ肌の色が違うマイノリティになるのは初めてだった。テロ予告も、学生の暴動も、回避するために逃げることができた。けれど、日々の生活からは逃げることができない。食材ひとつ買うにも、毎日、毎回、カモにされる日本人として現地の人と交渉しなければならなかった。一昔前の排気ガス基準の日本車だらけが街で走っていた。空気が悪く、1カ月に1回は喉から風邪を引いていた。近くのマーケットでは腸チフスが流行りだしたことがニュースになった。エボラこそ流行らなかったものの、マールブルグ出血熱の患者が自然発生した。夏休みの少しの期間だけウガンダへやって来て、綺麗な部分だけ見て帰っていく大学生たちが大嫌いだった。

 ちいちゃんに連絡をすると、いつも私を気遣った優しいメッセージをくれた。『「いってらっしゃい」には、ちゃんと無事に帰っておいでね、の意味も含まれてるんだよ』と教えてくれた。ちいちゃんに、「帰っておいで」と言われると、安心して、まだここで頑張ろうと思えた。

 そのうち、大学には週に1、2回、授業のあるときしか行かなくなった。あとはアルバイト先や、起業した日本人の人たちに着いて行っていた。工房のママにお願いして、街の市場で買ったカラフルな布でバッグと浴衣を作ってもらった。陸の孤島、鳥取で社会人の人と関わる機会が滅多になかった私には、ビジネスの場に関われることが刺激的だった。手に職をつけるためにコンサルに就職したいと思い始めていた。どこかで、ウガンダは鳥取に似ていると考えていた。

 大学の寮を離れ、しばらくタウンの安宿に泊まった。夜、見慣れない人がいた。みわこさんという人らしい。彼女を初めて見たときには、呪文を操っている人がいる、と思った。スワヒリ語を喋る、ライオンキングのラフィキそのものだった。凄まじい人が来た。日本人が日本人を見つけたとき特有の、「日本人と出会えて嬉しい」という感情を全く感じさせなかった。初めて会話したときには、きっと圧倒されて顔がひきつっていただろう。みわこさんを日本人へ紹介するたび、何度もその顔を見てきた。私も最初はそうだったのだろうと、なんだか懐かしいような気分を覚えていた。

 みわこさんは、界隈では「伝説の旅人」と呼ばれているらしかった。彼女はマッサージをする代わりに、現地の人に食事をもらう生活をしている、プロの旅人だった。スラムの人たちからはお医者さんのように扱われていた。彼女と一緒に街を歩くと、すれ違う人々から名前を呼ばれた。夕方にはもらったものでお腹いっぱいだった。

 何かがあって人だかりができていると、みわこさんはどんどん中心まで行って、何があったのか知ろうとした。当事者が友達かもしれないからだった。それまでずっと、何かを奪われる体験を毎日していた私が、ウガンダの人から何かをもらう立場になった。ウガンダは、助け合いの国だということがわかった。そうしないと暮らしてはいけないのだということが見えた。私がウガンダの人から見て、外の人間という立場から、内側の人間に切り替わった瞬間だった。

 その土地を好きになるということは、私にとっては「そこに住む人々を含むコミュニティを愛する」ということだった。私の人生に変化をもたらしてくれたのは、いつだって素敵な人との出会いだった。

 主体的に動かなければ何もない鳥取に教えてもらった「楽しさの見つけ方」は、きっとどこへ行っても私を助けてくれる。自分で楽しみを開拓していく面白さには、何も勝てない。そうして楽しみを見つけていくごとに、また新しい世界に出会い、新しい自分を発見していくんだ。

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