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『ダンまち』のアニメが面白くない3つの理由

 皆さんこんにちは。緋弾のアリアの30から33巻を買っていないと思って買って帰ったら既に買ってあり、30から33巻だけ二冊づつ確保することになってしまった華月すみれです。(いまだに口上をどうすればいいのか分かっていない)
 持ってる巻を間違えてもう一冊買ってしまうことって、ラノベ好き、漫画好きならあるあるだと思うんだよね。

 さて、今回はあの有名ライトノベル『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』の三期が放映中(記事を書くのが遅すぎて気づいたらもう終わってた)ということで、一期から見始めようかと迷っている人や、アニメを見た人で「これ、あんま面白くなくね?」と感じた人に対して、ダンまちのアニメに感じたことを筆者が書いていこうと思う。

 一つ注意点として、これはあくまでもアニメを見て感じた感想であり、筆者は原作を読んでいないので、その点を留意していただきたい。

 例によって例のごとくネタバレあり+ダンまち批評を含むので、そういうのが無理な方やダンまち信者の方はブラウザバックを。

(今回の記事すごい上から目線な内容になったけど、作者さんは三期分もアニメ化させる能力があるってことなので、ぶっちゃけ尊敬はしてます)

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◇ダンまちってどんな作品?

 とりあえず、記事にさせてもらっているので宣伝はしておく。
 この作品は、主人公のベルくんが、ある日目覚めた能力「アルゴノゥト」によって、様々な問題に巻き込まれていく、というあらすじである。

◇ダンまちって結局のところどうなのよ?

 この作品、筆者が最初に感じた感想は、「クソほどつまらんわけではないけど、めちゃくちゃ面白いわけでもないな」というもの。

 さてここで一つ、この記事を読んでいる読者の方々に質問を投げかけさせてもらおう。

「この作品で最も印象に残ったシーンはどこですか?」

 おそらく、多くの読者の方は一つか二つ、もしくは思い出せない、そんなシーンはないと答えると思う。
 筆者も、この記事を書くにあたって一期と二期を見直すまでは「二期の終わりの娼館で働く狐耳の子が生贄にされそうになっているシーン」というなんとも漠然とした部分しか思いつかなかった。
 そう、この作品は偏に「印象が薄い」作品なのである。

 個人的に、これがこの作品の一番の問題点であると考える。
 アニメが三期以上放映しているわけだから、ポテンシャルは他のなろう作品よりよっぽどあるのだろう。
 だが、アニメを見てみれば関わってくるキャラクターが違うだけで同じような内容の繰り返し。
 キャラが出てきて、ピンチが起きて、最終的に大団円、新キャラはベルくんの仲間入り。基本はこれが繰り返されているだけなのだ。
 これでは視聴者に飽きが来るのも当然。

 『魔法少女まどか☆マギカ』という作品を例に出すならば、

魔女(魔女の使い)を倒す

キュゥべぇから魔女(若しくは魔法少女)の秘密が徐々に明かされる

事件が起こる

 というサイクルで話が進んで行く。
 が、ここにはほむらという存在に大きなトラップが仕込まれており、10話で時間遡行者だと明かされることで物語の流れ(ルーティーン)が崩れ、その後の物語の展開に波乱が起こる。
 これに比べ、ダンまちは物語の根幹に関わる大きな伏線、物語のサイクルを破壊する存在が用意されていないのだ。

 よく創作作品は、プロの間で「作品の『シナリオやキャラ』と『読者』が共感しないとそもそもシナリオを読んでくれない」ということを言われる。
 その点を考えれば、なるほどダンまちは要点を抑えて書かれている。
 キャラの設定に違和感を覚えることは無いだろう。
 だが、共感を生み出すことができても、肝心のシナリオがよくなければ意味がない。
 これが、「つまらなくはないけどおもしろくもない」というジレンマを生み出しているのではないだろうか。

◇面白くない3つの理由
 ①シナリオメインの作品ではない

 さて、前述したとおり、キャラクターの設定に違和感がないことは理解していただけたと思う。
 では、ダンまちはどういった層を狙って作品がつくられているのか?

 例えば、ヘスティア様が何故あれほどまでベルくんに執着しているのか。そして、イシュタル様もどうしてベルくんに執着しているのか。
 全体的に、この作品に出てくるヒロインたちはチョロインなイメージがある。

 これはあくまで主観だが、ダンまちという作品はキャラゲーで成り立っている作品なのではないかと思う。
 「ヘスティア様がぷりぷり怒るの可愛い」、「アイズ様かっこいい」、そういった楽しみ方をするのがこの作品の楽しみ方だと考えれば、ヒロインが軒並みチョロインであることにも理解できる。
 そしてキャラを楽しむことがこの作品の楽しみ方なのだとしたら、なるほど筆者の求めている需要とは一致していない。
 筆者のように、ストーリーの重厚さを求めている層がダンまちをつまらないと感じるのは仕方の無いことなのかもしれない。

◇面白くない3つの理由
 ②シナリオが終始同じことの繰り返し

 さて、二つ目に上げさせていただいたこのストーリーが終始同じことの繰り返し、という条件。
 これはいったい何だろうか。

 順を追って説明しよう。
 このアニメーションのシナリオサイクルとしては、

キャラクター(主人公然りそれ以外然り)がピンチに陥る

主人公が解決

能力が強化

 という流れで話が進む。

 はて、この話の流れの何がよくないのだろうか?
 このシナリオの問題点は二つある。
 一つは、サスペンス性がない、ということ。
 もっと詳しく言うならば、サスペンスに広がりがない、ということ。

 ここで、物書きの使う「サスペンス」という単語について補足しておく。
 一般的に使われているサスペンス、という単語はどちらかというとミステリに近いような意味で使われていると思う。
 が、ライターの間では一般の人たちが使っている意味とは少し違う。

サスペンス(英語: suspense、ラテン語: suspēnsus) は、ある状況に対して不安や緊張を抱いた不安定な心理、またそのような心理状態が続く様を描いた作品をいう。シリアス、スリラー(サイコスリラー)、ホラー(サイコホラー)、アクションものといった物語の中で重要な位置を占める。単純に「観客の心を宙吊りにする」という意味でズボンのサスペンダーを語源だとする説明もある。
また、より広い意味においては、観客や読者が作品(の行く末や登場人物など)に対して不安や緊張の心理、物語の結末を知る事への希求を抱かせ、その作品に対しての興味と関心を持続させる事ができる(あるいは、製作者がそのように意図した)作品もサスペンスといわれる事が多い。この場合には、宣伝などに「ハラハラドキドキ」や「手に汗握る」といった表現(惹句)が用いられる事も多い。
(wikipediaより)

 ライターの間では、主に後者の「宙づり」という意味で使う。読者に手に汗握る展開を提供できているかどうかを「サスペンス性があるかどうか」と表現する。

 さて、これを踏まえてダンまちにはサスペンス性があるだろうか、ということを考えていこう。

 まず、昨今のなろう系によくあるわかりやすい物語。これをさらに極端に分かりやすくした作品の究極がこのダンまちではなかろうか。
 ストーリーの作り自体はそれぞれのシークエンスのみで完結していて、あとに尾を引く伏線は少ない。
 ゆえにどの話から入っても順番が分からなくなって困惑することは少ないと思う。

 だが、それゆえに主人公やその関係者が陥るピンチが一辺倒で、物理的なピンチしか迫らない。しかも、そのピンチは必ずと言っていいほど主人公のすぐそばで起こるので、主人公含めキャラクターが死ななそうに感じてしまう。

 これでは、チートものあるあるの「どうせ死なないんでしょ」というリラックス感を読者に与えかねない。

 上述したまどマギを例に出してみれば、三話のマミさんを皮切りにして、キャラがどんどん死んでいくようになる。
 また、単純な、ぱっと出てきたキャラがぱっと死ぬ、という形式ではなく、キャラに寄り添った構成にしてじわじわと愛着を持たせていき、ピークで殺されるから視聴者に衝撃が走る。
 そして、死に方(サスペンス)にも多くのバリエーションを持たせてある。
 魔女に食われて死ぬ、魔女化して抜け殻になる、魔女を倒すために自分を犠牲にする、ループが親友を傷つけると知って絶望し、心が壊れる…………。

 ダンまちは、主人公の干渉できる範囲で問題が起こるのがサスペンス性を薄めている原因なのではなかろうか。
 これを裏切った二期の娼館の話はよかったと個人的には感じている。
 主人公がどれだけ手を伸ばしても、ヒロインがそれを受け入れなかったり周りの妨害に合ったり。
 物語が「主人公の手が届かない」ということを踏まえて話が進んで行くので、この後どうやってヒロインを助けるんだろうか、というサスペンス性がしっかりと生まれていたと思う。

◇面白くない3つの理由
 ③主人公やキャラに成長がない

 そして三つ目。
 物語というのは、主人公やキャラが成長していくことによって厚みを増すものである。
 が、ダンまちは成長している様子をステータスという形で表しているせいで、強くはなっていっているが中身が変わらないというジレンマに陥っている。

 キャラが成長する、つまりキャラの性格が変わるというのを一番手っ取り早く表せるのは行動だ。
 これまではココアしか飲めなかったキャラが、親を失い、一人で生きていかなくてはならなくなった。ここで、キャラが成長したことを表す小道具としてコーヒーを飲ませる。とか。行動を変えるというのはそういう使い方だ。

 だが、ダンまちの主人公は初めから性格が弱きを助け強きを挫く「正義のヒーロー」として完成されすぎている。
 そのせいで、主人公に与える事ができる成長のための関門は「力及ばずで正道を為せない」というものに偏ってしまう。

 例えばリゼロで言えば、自分の力が及ばないせいでキャラが死ぬ、なんてこともあるが、それ以外にも「仲良くなりすぎたせいでその人物が事件に巻き込まれ、結果死ぬ」とか「エミリアを助けようとするあまり最悪の選択肢を取ってしまった結果、エミリアの立場が悪くなる」など、力関係の問題や命に関わる関門以外の展開がしっかりと用意されている。

 ダンまちは、この成長のための関門、そのバリエーションの少なさから「最初からは思わないところに行く」という裏切りがない。
 「あぁ、この後は何となくこうなるんだろうな」という展開が予想できてしまうのだ。

 ストーリーの展開が予想できてしまうというのは、創作において致命的な欠点となる。
 どうなるんだろう? という興味が引き出せなくなってしまうからだ。

◇総括

 とはいえダンまちは決してつまらない作品ではない。
 ごちうさのように、キャラへの愛で作品を見るならば、キャラ造形はしっかりしているしいいと思う。

 だが、サスペンス性を含む作品として見た場合には面白いとは言い難い。
 最近は、ジャンプのような「友情」「努力」「勝利」がしっかりとしている作品が再評価され始めている。

 もし自分で一から創作を始めてみたいという読者がいるのであれば、「サスペンス性」や「キャラの成長」に重点を置いて考えてみることをお勧めする。

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