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どうにもならんよ

京王線のジョーカー事件は衝撃的で、使ったことがある区間だから、自分のこととして怖かった。Twitterで検索すると、今すぐ極刑に処せ!というバカな反射神経で入力された暴論に紛れて、犯人に共感する声もある。

(そして思い出すのは、前に少し親しくなった人と一緒に「ダークナイト」を見に行ったこと。彼は、ヒース・レジャーの伝説的な演技ではなく、狂気で歪められた悪役が、圧倒的な暴力で人々を支配する姿にときめいていたようだった。)

模倣犯ぞくぞく誕生の気配に恐怖。ただ、犯人の動機が言語化されたら、きっと理解できてしまうと思う。理解できなかったら、山から降りてきたクマが起こす騒動みたいに、悲しいけど回避が難しかった出来事として、距離を置いて捉えることができるだろうに。なんというか、こういう事件には、私たちの悪いところが濃縮されて爆発したような印象を受ける。

例えば、何者かにならないといけない、人の役に立たなければいけない、親を喜ばせないといけない、異性から選ばれないといけない、充実した生活を送らなければいけない、成長し続けなければいけない、といった様々な重い目標を課された気になって私たちは生活している。そして、SNSで他人がそれを達成しているところを目撃する。比較して自分を不甲斐なく感じる。ここにいてはいけないと思う。生きていてはいけないと思う。

さらに、好きなことに没頭したり誰かといたわり合ったりすることで、生活のキツさから気を逸らす、という技を使えない人が多いのだと思う。現代では神様も悲しいかな心の拠り所にはならず、物質は決して満足を与えず、ブルーライトのせいで眠りは浅く、美しい秋はあまりにも短い。

詩人キーツは説きました。ネガティブ・ケイパビリティ、つまり分からないことや解決できないことを受け入れる能力について。神学者ニーバーは祈りました。変えることのできないものについて、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

それはどうにもならんよ、と状況を受け入れることができないと、どうにかできない自分が責められている気分がして、他人や社会のせいにしたくなるんだろうか。そして暴力でみんなを支配することで、偉い気分になりたくなるんだろうか。そういえば、受け入れられないということは、受け入れられた経験が乏しいということなんだろうか…?寒いし疲れたから色々考えて悲しくなってしまった。



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