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『煙だらけ』
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先日久方ぶりに大駱駝艦の舞踏『煙だらけ』を観てきました。創立50周年公演「おわり」「はじまり」以来。
もくもくと色々な種類の煙がダイナミックに、静かに現れては消え、それを身体ひとつでいかに魅せるか。「分からないけれど面白い、惹かれる」と純粋に思えてよかったです。
舞踏をやっている人独特の脇や脛の横の細かな筋肉が発達した身体はいつ見てもうっとりするほどきれいですね。
以前田村一行さんのインタビューを読んで、「人間の肉体は水の入った袋である」(空っぽになり、その水が移動することによって身体が動く)という考え方を知り、どうしてもその感覚に触れてみたくて稽古場でやってる舞踏のワークショップに参加したんですが、自分の身体を意識する時いつもそのことを思い出します。
“自分の実態は外側にあること”
“宙体・鋳態・身振りの採集”
“おかげさま”
腕ひとつ降ろすにも「普通はこう動くだろう」という自分の意思が絶対に入り込んできて、空っぽになることはなんと難しいのだろう、と。踊りを会得するのって、お釈迦様のように解脱するのと同じくらい困難なんじゃないでしょうか。
己が肉体を誇示し、人の身体に触れ、傷つけ、愛を示す行為をする者として、何か掴めそうな気がするのになあと考えた帰り道でした。
ピナ・バウシュ『春の祭典』のチケットが当たったので、今回観た舞踏と比べた時に自分がどう感じるかが今から楽しみです。
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