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2-32 人はなぜ考えないといけないのか

\人間の五感は、いまここの近接した物事しか感じられない。世界や未来は論理と想像を駆使して考えることでしか捉えられない。おもしろおかしいいまここの娯楽に溺れていれば、あなたは世界や未来を失う。\

 いまどき哲学なんて、はやらない。売れないし、儲からない。市場原理からすれば、いらない、ということになる。なぜはやらないか、と言えば、楽しくないから。売れるのは、グルメにスポーツ、映画やマンガ、そして風俗と賭事。こういうのは、カネさえ払えば、すぐに楽しめる。努力なんかいらない。ようするに、五感を直接に刺激してくる。

 しかし、人間の五感には致命的な欠陥がある。そのどれもが近接感覚だということ。つまり、目の前の物事しか「感じる」ことができない。一方、鷹は数キロ先のものでも見える。犬は数キロ先の匂いも嗅ぎ付ける。象もまた数キロ先の音に反応する。これらに比すれば、人間は、動物の中でも極端に近視眼的なのだ。これを補っているのが、論理と想像を駆使して「考える」ことのできる大きな脳。目の前の物事から考えて、遠くのこと、過去や未来のことを知る能力を得た。それが、我々の今日の文明の繁栄をもたらした。みんなで自分に近接するところの情報を持ち寄り、それらを元に、他の動物では考えられないほど壮大なことを考え出し、成し遂げる能力を得た。

 だが、文明が巨大化しすぎると、情報は過剰になる。話も考えも、たがいに相克拮抗してしまい、なにも決められなくなる。それで、間断無き情報の洪水に浸らせて、大半のセンサを停止させる方法を考え出した。ローマ時代、考えても考えが役に立たない愚民たちは、パンとサーカスに漬け込んで、四六時中、その五感を飽和させ、余計なことを考えられないようにした。これがローマの平和。みんな、おもしろおかしく、幸せに暮らした。

 とはいえ、ローマの平和なんて、長くは続かなかった。中枢は権力闘争に明け暮れ、権謀術数が渦巻き、帝国維持に内部消耗して自滅。こういう自滅的な権力闘争や権謀術数をなんらかの方法で止めることなど、娯楽ですでに脳が溶けきってしまっていた帝国民たちは考えもしなかった。ただ目先の情報に振り回され、文字通り帝国内を右往左往と逃げ回るだけ。

 現代も似たような状況だ。どこの国も、パンとサーカスで五感を麻痺させ、愛国心の美名の元に一方的な大本営情報を洪水のごとく垂れ流し、自国民をバカに染め上げている。そして、このバカたちを使って、自分自身の目や耳で見聞きし、そこから自分で考えようとする者を叩き潰す。だから、よけい、だれも、遠くのこと、過去や未来のことを考えない。その一方で、中枢の権力は歯止め無く不安定になっていき、だれも望んでいないような破滅的な道を突き進む。

 まあ、他の国のことはいい。だが、日本は、ローマ帝国同様、かつてそれを大々的にやって、取り返しがつかないほどの大失敗をし、世界中に迷惑をかけ、いまだにそのせいで袋だたきに遭っている。うっとおしいと言えば、うっとおしいが、我々の過去の愚を繰り返して自滅へ向かいながら、身を挺して、我々に我々の過去の愚を思い起こさせてくれていると思えば、まことにありがたくもある。

 五感では、いまここのことしかわからない。そして、いまここに甘んじていれば、世界も未来も失ってしまう。いまここではないものごとなど、五感には無いのだから、当然、おもしろくも、おかしくもないだろう。それどころか、悲観的なことさえ次々と思い浮かぶ。だが、正しく問題を捉える者だけが、その問題を解くことができる。たとえおもしろくも、おかしくもなかろうと、世界と未来を考える者だけが生き残ることができる。

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