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1-95 あなたに残された道はほんとうに自殺しかないのか

\自殺がいけないという理屈が通るくらいなら、自殺する者などいない。生きるのに疲れたなら、休む権利がある。聖職者や看護師は、あなたのような人を迎え入れるためにこそいる。死にたい、と言えば、すぐ楽にしてくれる。\

 ここで、自殺がいけない、などと、きれいごとの説教をする気はない。自殺がいけない理由など、どれもこれも後知恵のこじつけだろう。人殺しは罪だ、ゆえに、自分を殺すのも罪だ、など言ってみても、では、その罪を自分で死んで償います、と言われてしまえば、まったく無意味ではないか。

 そもそも、死にたい、と言っている人に、自殺はいけない、などと理屈を言うのは、鬱病の人に、がんばれと言うのと同じだ。むしろ、それこそ絶対にやってはいけない。だいいち、常人には想像もつかないような現実の世界を惨々に見せつけられてしまったからこそ、その人は、死にたいとまで思うに至ったのだ。

 それどころか、理屈では、罪を犯した人の場合、自殺には経済的な合理性がある。日本の法では、死人は罪に問われない。懲戒免職が当然であっても、処分前に死ねば退職金は満額。職域年金も減額無し。まして、自分が死んで大物の罪をかばったなら、違法に罪を免れたその大物が陰で遺族を支え続けることが期待できてしまう。江戸時代の切腹も、戦時中の自決やバンザイ突撃も、名誉よりなにより、そうしなければ、家族にまで多大な累が及んだからだ。これは、社会の方が悪い。暗に自殺を推奨しているようなものだ。

 だが、犯罪ではない、たんなる仕事の失敗などであれば、自殺が良い悪い以前に、そもそも何の死ぬ理由があろうか。死んでも、何にもならない。借金は消えるが、家などの財産も相殺。多少の保険金が入るにしても、それと引き替えに父の死を望む家族がいるだろうか。また、それで借金を返し、恩に報いたとしても、それで喜ぶ相手なら、もともとまともな友人であろうか。そんな相手の借金なら、踏み倒して夜逃げした方がましだ。

 妻や子が死んだ、病気が辛い、などということもあるだろう。しかし、これもまた、死ぬ理由ではあるまい。ほっておいても、いずれ遠からず自分にもお迎えは来るものであろうし、もしそうでなければ、それこそが、死んだ者の、そして、神や仏の御意志であろう。哀しみの日々であっても、哀しみに暮れてこそ、供養であり、治療というものだ。

 なんにしても、死にたいほど、生きるのに疲れた、ということはある。それなら、あなたには、しばらく生きるのを休む権利がある。だが、電話相談などにかけても、たぶんどこにもつながるまい。だから、深夜であっても、最後の力を振りしぼり、自分でできるだけ大きな教会か寺社、病院に行き、警備員ではなく、聖職者か看護師に、ただ一言、「死にたい」と言えばいい。それが「聖域(サンクチュアリ)」の宣言になる。自殺念慮のある人が懐に飛び込んできて、それを見捨てる専門家はいない。あなたは、あとは、ただ小さな注射を打ってもらって、死んだようにぐっすりと、ひたすら眠っていればよい。

 夢に破れ、信頼を裏切られ、もはや世も人も信じられない気持もわかる。だが、ある病院のチャペルに勤めている高齢の神父は、ほんとうに立派な人格者だ。主のおいりように従い、遠い異国の地からたった一人で日本に来て、あちこちの教会や施設で、心に重荷を抱えた多くの人々の相談に応じてきた。なにしろ彼らは、二千年も前から、あなたのような人を迎え入れるためにこそ、日夜、働いているのだ。

 だから、もうあなたは無理にがんばることはない。妙な作り笑いなど止め、とっととその聖域の中に倒れ込み、その足下で心の底から泣けばいい。死にたいのなら、死にたい、と、はっきり言えばいい。そうすれば、すぐに彼らが楽にしてくれる。

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