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2-23 日曜作家のすすめ

\いまどき作家でプロになっても、まず喰えない。いっそ日曜の趣味と割り切れば、自分の頭ひとつでどこでもできる贅沢な楽しみ。尽きることのない想像の中で、身近な風景が虹色に輝き出す。\

 小説を書く、というと、すぐ、どうやったら賞を取れるか、とか、自費出版でも本を出したい、とか。だが、趣味の油彩や楽器で、絵を売りたい、CDを出したい、なんてやつがいるか? 絵を描くこと、演奏することそのものが楽しいから自分で好きでやっているんで、べつにそれを人に見せびらかしたりする必要などないし、まして、それで一発当てようなんていうやつは、まずいない。なのに、いつから小説だけ、こんなに山っ気が強くなってしまったのだろう?

 たしかに、かなり昔、ちょっと小説を書いただけで大もうけが出来た時代もあったのかもしれない。テレビさえも無いころは雑誌というものが絶大な全国的影響力を持っており、それに載るだけで、一躍、文化人の仲間入りができた。しかし、それははるか昔。いまどき雑誌なんかに出たところで、そんなのを読んでいる人は限られている。読んだ人でさえ、翌週には何も覚えてはいない。もちろん人気作家で作品も映画化されているような人もいるが、それは、ほんの数えるほどの特異な例外。それだって、次々と新しいのが出てくるから、昔と違って売れ行きは何年ももたない。大半の作家は、喰い詰めている。本を出したところで数千部。百万円にもなれば、かなり運がいい方。

 いまどき作家なんて、喰える商売ではない、日曜の趣味だ、と割り切った方が話が早い。喰えないならやらない、というような人は、そもそも向いていない。だいいち、作家になりたいというだけで、どうしても書きたいことがあるわけでもないような空っぽのやつが無理やりページを字で埋めたところで、読ませる中身があるとはとうてい思えない。

 むしろ逆だ。ぜひ読んでみたいことがずっと頭から離れず、ところが、それを書いてある本がどこにも無くて、それでついには自分で書いてしまう、というのが、小説を書く動機なんじゃないだろうか。たとえば、近所に古い道標がある。かつてこのあたりは宿場町だったらしい。どんな人がいて、どんなことがあったのか、いろいろ調べてはみたがよくわからない。そんなことを考えているうちに、なにか人目を避けて道を急ぐ旅人、それを呼び止めた宿屋の女将、おりしもこの宿場では古顔の親分が亡くなってチンピラたちが云々と、登場人物たちが次々と現れ、それぞれが自分の人生を語り、それがこの時、この場で絡み合い、意外な展開になって、それを追いかけている自分の方が驚かされる。

 小説を書くのに、何もいらない。絵具も楽器も必要ない。ぎゅうぎゅうの満員電車の中でも、つまらない会議中でも、自分の頭ひとつでできる。窓の外を眺め、そう、あれはちょうどこんな空模様の日だった、というところから、物語は始まる。どうせ人に読ませるわけでもないのだから、べつに書かなくたっていい。ただ細部に目をこらしていくだけで、そこにヒントが現れ、それがきっかけで、話は先へと転がっていく。

 とはいえ、実際に書いてみると、これまたおもしろい。というのも、おうおうに話のつじつまが合わないからだ。だれかがウソをついている、何かを隠しているのかもしれない。いや、自分の知らない間に、それがそうなった重大な出来事があったのかもしれない。さて、それはいったい何だったのか、と探っていくと、いろいろまた裏がわかってきて、興味は尽きない。そうでなくても、場面を書き出してみると、そこに出て来ていない人物たちはどこで何をしていたのか、とても気になるではないか。

 小説作りは、一生に一度限りの人生を何倍にも増やす方法。しょせん妄想じゃないか、と言われても、そうだよ、それで悪いか、どうせ趣味の遊びだからさ、というところ。他人の作った売りものの物語を読むのもいいが、そんなものをわざわざ買わなくたって、きみにだって、自分で作れる。そうすれば、もっと身近な風景が虹色に輝き出す。ほら、こんな時間なのに、だれかが玄関のチャイムをならした。さて、いったい誰だろう?

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