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2-22 日本の信仰は本末転倒

\いまの日本は、一億、オレはお客様教。自販機で缶コーヒーを選ぶかのように、どの宗教がどうこう、どの神仏がどうこう、と、能書きを垂れる。だが、どの宗教でも、神仏の側が人を選ぶ。選ばれるに値するだけのことを日頃から精進しなければ、話にもなるまい。\

 近頃はパワースポットがはやりだそうだ。休みともなれば、観光気分で国内外の寺社や教会に押しかける。なかでも、縁結びだの、合格祈願だの、商売繁盛だの、御利益のありそうなところは、車やバスや飛行機で大勢が押しかけ、次々と御札や御守を「買って」いく。結婚式では、心にも無い賛美歌をみんなで合唱し、誰だか知らない牧師だか神父だかの音頭で愛を誓い、葬式では、とりあえず適当な坊主を呼びつけ、とりあえず適当な経を読ませておしまい。通販だか雑貨屋だかで買ったムダに豪華な数珠や十字架をチャラチャラと周囲に見せびらかし、仏教だ、キリスト教だ、やっぱり神社だ、などと語るありさまは、まるで自販機の前で缶コーヒーでも選んでいるかのようだ。

 あらひとがみ、が、あっけなく米国に負け、戦後の小市民平等主義とバブルの拝金資本主義の結果、いまや、そこら中に、一億二千万もの、オレはお客様教、の御神体が闊歩している。ホテルやデパートはもちろん、病院や学校でさえ、おれハ大金ヲ使ウ上得意ノお客様ダゾ、丁重ニ扱エヨ、と、喚き散らし、ふんぞり返る。その同じ調子で、寺社や教会でも、ワザワザおれ様ガ現なまヲ落トシニヤッテ来テヤッタンダカラ、アリガタク思エ、とばかりに、好き勝手にどこにでも入り込んで、不作法に写真を撮りまくる。そして、オイコラ、ソコノ神仏トヤラ、かねガホシイカ、ソラヤルゾ、サア、トットトおれ様ヲ救ッテミセロ、と、小銭を投げつける。

 だが、まさか賽銭ごときで、いや、たとえ法外な大金を寄進したところで、現世のカネで神仏の御心を「買収」できるわけがあるまい。神仏に祈る窓口として人が宗教や寺社教会を選べたとしても、どの宗教、どの寺社教会であっても、誰を救うかを選ぶのは、神仏の方だ。あれこれ寺社教会に奉納して祈願するのもけっこうだが、その思いを神仏に聞き届け入れてもらえるに値するだけのことを実際にやってから来ているのか。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、モーゼに神様御本人(?)がお答えになったように、ありてあらん者、という神様。それは、いつでもどこでもすぐそこいる神様だから、この世に唯一で絶対的。別の神様の選びようなどない。それは、仏教やヒンズー教でも同じこと。神道でさえ、八百万の神々すべてを畏れ尊んでこそ。現代の日本人のように、どの宗教にしようか、などと、偉そうに人間ごときが神仏を選ぶ余地などない。

 人力人智の及ばざるところに突き当たり、神仏の御加護を願うのなら、まず人間の身の程を弁えることから始めないといけないだろう。現世のカネごときでは買えない、もっと大切なもの、難しいことがあることを思い知らないといけないだろう。そして、御加護を求める以上、すくなくとも神仏が御加護してくださるに値するだけのことはすべてまず自分自身でやってからでないと、話にもなるまい。そして、それでもなお、神仏がいかに計らうかは、結局、神仏が決めること。

 そんなのずるい、不公平だ、とか、いまだに自分を神仏とタメに考えているようなやつは、どのみち神仏とは縁はあるまい。むだに寺社教会に入ってくるな。そこは人々の真剣な祈りの場であって、遊園地のアトラクションではない。いかに「拝観料」を払ったとは言え、神仏は見世物ではない。そこでは、どんな人間も、お客様、ではない。

 人が神仏を選ぶのではない。神仏が人を選ぶ。神仏に選ばれるに値するよう、日頃たゆまず精進に努めてこそ、祈りというもの。祈りを忘れれば、いつか罰が下る。

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