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1-19 ブランド型かけ算商売の飽和点

\産業革命以来、企業は、設備型、開発型、ブランド型と、資本回転率のかけ算商売で効率を上げてきた。だが、関係者が増えれば、収入の期待値も下がり、数を揃えるためのコストの自重がのしかかる。\

 ひとつ作って、またひとつ。手作業の商売は、足し算で成り立っている。ところが、十九世紀後半の産業革命以降、資本主義とともに巨大な「かけ算商売」が登場してきた。その最初は、石炭や鉄鋼、化学肥料などの産業。国家投資的な設備資本を利用する。ここでは、同じ資本の稼働率によって生産性が決まる。昼間だけよりは昼夜二交代、さらには早番、遅番、深夜番の三交代二四時間フル稼働の方が収益が大きい。

 二〇世紀初頭になると、自動車や電器などの民間産業において開発型の資本主義、いわば技術資本が生じる。これは、先行的な株式投資を集め、技術や金型など、破格の開発費をかけても、その後に同一の製品を大量生産すれば、個々の製品に占める変動費としての製造原価はともかく、固定費としての開発費は個数割りで逓減できる、というしかけだ。たとえば、開発費が一〇〇〇万円でも、一〇〇〇個作れば、一個当たりの負担は一万円、二〇〇〇個作れば、五〇〇〇円に過ぎなくなっていく。流通も同様。およそ生産倍増で費用三割減になることが、経験効果としてよく知られている。

 さらに二〇世紀後半には、書籍や音楽や映画などのブランド資本が席巻する。これは、出版複製ながら高額で売れる商品であり、その製造原価は価格の数パーセント。開発費は個人の才能頼みで、相当のギャラを払っても、商品がヒットすれば、出版業者はボロ儲け。とくにラジオやテレビという放送メディアは、遠くに届くことよりも、同時に大量複製できるコピーマシンとしての威力が強大であり、広告業は看板からCMにシフトし、また、その他のブランド資本の商売も、テレビとのタイアップで人気を煽ることが常態となった。いわゆるブランド商品やチェーン展開なども、実質的にはこの一種。原価は他の無名商品と大差ないのに、それを信用名目に大量生産・高額販売するのだから、どこの企業もブランド化を企図するのは当然だった。

 しかし、これらはすべてもう過去の話。いまさら鉄鋼業や電器産業を興そうという人がいないのはなぜか、よく考えた方がいい。ブランド型資本のかけ算商売では、たしかに才能のある者は想像を絶した収入を得る。だが、アタリとハズレの差が大きい。たとえば映画業界でも、スターとワナビとでは雲泥の差。概して、関係者全員の収入の総和を、その総人数で割ったものが、その業界に新規参入する者の収入の期待値。人の動機はカネだけではないが、これが世間一般の平均収入と均衡するところまで、新規参入者は増える。

 設備型や開発型と同様、ブランド型かけ算商売も、すでに参入者が多すぎて、均衡を割り込んでさえいる。それも、知名度の既得権がある方が圧倒的に有利なのだから、新規参入では成功の確率が悪すぎる。その既得権側も、新規参入者が増えすぎて、生産と消費が分散し、切り崩しにあっている。そのうえ、不景気で、世間は堅実化し、実体のないブランド品には手を出さなくなってきている。

 こうなると、足し算の手作り商売でも、大手と互角に戦える。いや、チェーン展開して争ったりせず、ニッチで単独の特異点を狙った方が有利だ。かけ算商売は、その量的規模によって、製造原価を平準化せざるをえない。無理に数をつねに一定に揃え続けるための調達コスト・営業コストもバカにならない。一方、高級レストラン、激安スーパーなどは、今日だけ入荷した手元のおすすめ品で勝負をかける。恐竜が自重を支えきれずに潰れていく中、その足下を走り回るネズミが最終的に生き残ったりするものだ。

『百日一考: 働く人のための毎朝の哲学』

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