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赤マル時代

 人其々、或る期間に於ひて極端に何かを好み、繰り返し嗜好する時期がある。そんなことはないだらうか。  
 例へば、私は或る時期にバー通ひ・カクテルを飲む遊びをした。居酒屋より凝つた御酒を飲んで、其處ら邉の人の話を聞いたりしながら過ごす時間が好きだつた。
 また或る時期には、日本酒ばかり飲んでゐたこともあつた。刺身の盛り合はせなどとともに、グッとくる夜があつた。
 別に酒の種類に詳しくなつたりはしなかつたけれども、さういふ經驗は私の中で美しい思ひ出として未だに心の中に在る。一つの時期・時代としての記憶である。
 御酒だけではない。其れは かまやつひろし『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』であつたり、某驛ビルで買つたワイドパンツであつたり、梶井基次郎の短篇小説であつたり、…。
 其れらの殆どは生きていくことに直接的な必要性がない、嗜好品である。別に無くても死にはしない。でも慾しい。さう思つて、其れにどつぷりとのめり込み、やがて飽きていく。さうして暫く離れて、いつか再び思ひ出した時、其れに附随して樣々な情景が腦裏に浮かぶ。

 あれは2016年の春の日であつた。私は長く吸ひ續けてゐたラッキーストライクを止め、マルボロの赤(通稱赤マル)に變へた。ブルースマンは皆んな赤マルを吸つてゐるべきだつた。理由は分からないけれど。そんな偏見がきつかけだつたかもしれない。
 或る女性(名はカテリーナと稱す)と會ふことになつてゐた。大學の近くの小さな喫茶店、靜かで好きな場所だつたけれど、獨りで行くのはなんとなく憚られた。だから今日なんかは丁度よいだらう、と思つた。
 待ち合はせ場所に近い喫煙所で、最近吸ひ始めた赤マルに火を點けて思つた。赤マルを吸つてゐる私、さうぢやない私よりもほんの少しだけ格好いい筈だ。根據はないけれど。
 春の陽を透かした木々の若葉や草花が萌え、霞む空氣は若き精氣に漲つてゐた。風が吹いて、景色は激しく搖れてゐたが、私以外には誰もゐなかつた。こんなに美しい風景なのに、勿體ないな。でも假に今日が休日でなく人通りがあり、喧騒の手が伸びてゐたならば。こんなには美しくなかつたことだらう。
 其處へカテリーナが來た。ブラウン風味の服裝は落ち着いてをり、風景に調和した。前に會つた時とは髪型が違つてゐた。我々は歩き始めた。
 昨年度最後の授業の話になつた。
「最後だから、つていふ譯で、皆んなで記念寫眞を撮つたのよ。だから、ミーチャも授業に出てをけばよかつたのに」
カテリーナは私の顔も見ず、でも不安や氣まずさの色もなく、落ち着いた調子で云つた。
「さうか…。まあ單位は取れることが決まつてゐるし、休みたくなつたんでね。仕方ないさ」
私は内心、寫眞は慾しいと思つたが、其れをカテリーナに悟られるまいとしてわざと興味がない振りをした。

 週に數囘、私はカテリーナと同じ授業を受けた。別に用事がなければ話しかけることもない。カテリーナのことは名前くらゐしか知らなかつた。然しいつの頃からか、私はカテリーナに注目するやうになつてゐた。緩くウェーブする長い黒髪が、美しい脚の線が、そして何よりも其の笑顔が、私の視線を惹きつけて離さなかつた。
 或る日、街中でカテリーナと偶然に出會した。始め私は氣がつかなかつたが、カテリーナは
「ドミートリー君」
と私を呼び止めた。私を認識してゐたことが意外だつた。
「ぢやあね」
とだけ云つて、カテリーナが笑つて手を振つた。
「う、うん…」
私も吃りながら手を振つた。餘りのぎこちなさに、恥ずかしくて仕方がなかつた。けれども其の一方でとても嬉しい氣持ちになつたのである。
 そんなことがあつてから、カテリーナとはたまに話すやうになつた。近い席に座れば、何か機會があるかもしれない。さう思つて期待した。實際にさうしてカテリーナと話すことなんてほんの數囘だつたし、内容もたわいないことだつただらう。でも其れでよかつた。彼女は私を覺えてゐてくれたのだし、私も彼女の爲に何かをしたかつた。こんな感情が起こる自分自身にさへ、驚いたものだつた。

 例の喫茶店に入つた。店内は全體的に木の質感がする。壁や床だけでなく、テーブルや椅子も年季の入つたものばかりであつた。晝過ぎであるにも關はらず、其處は妙に靜かで薄暗かつた。他に客は數人、文庫本など手にして、やたら落ち着いてゐた。窓際の席に陽が差し、其處だけがぼうつと白く浮かぶやうであつた。花が生けてあつた。我々は奥の壁際の席に着いた。
 年寄の店主がメニューを持つて來た。かういふ店に行き慣れぬ私は、メニューを見ても其れら珈琲の種類や味の違ひは殆ど分からなかつた。でもカテリーナの前で、分からないので教えてください、なんて訊くのは嫌だつた。取り敢へずブレンドを頼んだ。
 カテリーナもメニューを見てゐたが、
「クリームソーダをください」
と云つた。店主が去つた後で、
「私、珈琲は苦手なの」
と云つて笑つた。
 私はデニムジャケットの胸ポケットから赤マルを取り出し、火を點けた。青紫色の煙がふわつと立つた。

 其處で話した内容の詳細は、今となつては思ひ出せない。やはりたわいないことばかりだつた。彼女はモスクワ郊外の小さな街の出身で、兄弟姉妹はゐない一人つ子であるとのことだつた。私は弟の話などした。あとは當時してゐたアルバイトのこと、所属してゐたシンセサイザー奏者のクラブ、そして學校のことなど…。
 やがてブレンド珈琲とクリームソーダが出てきた。カテリーナはとんでもない御馳走を目前として
「うわああ」
と顔が綻んだ。とても嬉しさうだつた。こんな感情の發現は驚くべきことだが、私も他人のことは云へないかもしれない。カテリーナの前では氣取つてゐたい氣持ちと、素直な樂しい感情を共有したい氣持ちとがせめぎ合ひ、内心興奮してゐた。
 店を出て、我々は再び歩き始めた。春の日の午後は相變はらず暖かい陽氣で一杯だつた。霞む陽光が、風の音が、草花の眠るやうな甘さが、こんなに美しいものだつたなんて、此れ迄氣がつかなかつた。
 例の喫煙所の前で、
「ぢやあね」
と云つて別れた。彼女は綺麗な人だ。

 喫煙所に殘つた私は、ふう。とひと息ついて胸ポケットから赤マルを取り出し、火を點けた。次からはアメリカンスピリットに變へてみよう、と思つた。

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