見出し画像

祖父を悼む

(今回は既存フォーマットを無視して書くこととします)

 第一報が来たのはいつだったか。確か3月、同人誌の原稿作業に追われていた頃だったような気がする。
 正直な感想は「またかよ」だった。
 祖父はこれまでもしょっちゅう入院しており、そのこと自体は大して珍しくなかった。自分の知る限り祖父はとんでもない呑兵衛が祟って常に肝臓を悪くしており、度々入院していた。その度に母親が走り回っている印象があった。
 しかし、今回はいつもと違って「見舞いに来なさい」と言われたので内心面倒だなと思いつつ、ただでさえ遠い実家よりさらに遠い祖父の病院へと足を運んだ。
 
 知らない祖父がいた。

 わたしのことを褒めそやし、にこやかに握手を求めてくる祖父がいた。終始明るくしゃべくり、左手のペアリングを見つけて「おう、いつ結婚したんや」と訊かれた。まだである。帰り際には「3日もすれば(家に)帰れるねんて」と言っていた。病室を出てから母は「そんなわけないやろ」と溢していた。
 後から鎮痛剤としてモルヒネを使っていると聞いた。どうりで元気なわけだ。アッパージジイと化した祖父を思い返し、なんとも言えない気持ちになった。
 親父どうやった、との伯父からの質問には「元気そうやったよ」と返すしかなかった。鎮痛剤の話は知っていたらしい。でも投与後にはまだ見舞いに行っていないとのことで、伯父はきっと変わり果てた祖父を見てわたし以上にショックを受けるのではと思った。その後財産分与の話を持ち出されたが正直そこまでちゃんと覚えていない。

 ちなみに祖母も同時に入院しており、やはりペアリングで誤解された。
「結婚式行けんくてごめんな、不甲斐ないばあちゃんで……」
再度申しておくが、まだである。

 第二報……が来たわけではないが、前回時点でうっすらと流石にまずそうだと察していたので4月末に、今度は伯父と一緒に再度祖父の元を訪れた。鎮痛剤はやめたとのことで、まだ見たことがある程度のテンションに戻っていた。
 病室に入って早々、「栄養剤を経口摂取できないらしく鼻を通して体内に入れたいのだが、当の祖父が中々了承しない」みたいな理由で伯父と大揉めしていた。この二度の見舞いで二度とも鼻の管を勝手に抜いていたことから鼻に何かを入れるのが本当に嫌いなのだろうとは察していたが、そこまでして拒否するものかと首を傾げた。
 伯父と話しながら、時折ふざけて白目を剥く祖父が怖かった。がりがりに肉の落ちた身体で魂の抜けたような顔をしておどけてみせる祖父を見て息が詰まった。その日も握手をして病室を出た。思いの外力強い手の感触をまだ覚えている。
 その日は「あと1ヶ月もしたら帰る」と言っていた。伯父は「まだ現実を見とらんねん」と運転席で吐き捨てた。

 連休前出勤最終日の帰路で買い出しをしていたとき、「ヤマらしい」と家族のグループLINEに連絡が入った。今までもたまに同様の連絡は来ていたが、今回は祖母の病院に外出許可を取りに行くとも言っていたのでいよいよかと思った。慌てて主催予定だったコスプレの併せグループに延期を打診し、他の5月の予定も家族の指示のもと前もって全て潰した。キャンセル料が痛かった。
 結局その日はなんとかなったものの、ビクビクしながら特に外出キャンセルを求められていないらしい実家の弟を恨みつつ連休をすごし、5月4日にイオンで父からの電話を取った。「予想通りだと思いますが」の前置きで十分だった。

 お通夜は瞬く間に終わった。祖父の近所の……いわゆるムラの人たちが母の紹介で次々に「大きくなったなぁ」と声をかけてきた。一人残らず知らない人だった。ムラのじいさんばあさんだらけの式らしくけたたましい着信音は鳴り響いたし坊さんは祖父の名前を二度も間違えたしで結構グダグダだった。けど下手にしんみりするより祖父には似合っていただろう。

 お葬式もすぐに終わった。お焼香のときに、人生で初めて母の背中が小さく見えて泣いてしまった。
 祖母も身体が悪い中なんとか出席していた。最後のお別れのときに「ありがとうな、たくさん世話してくれて、ご飯も作ってくれて……」と声をかける祖母を見てまた涙が出た。
 祖父の胸元に添えられた、幼稚園児の頃の自分の絵手紙はちょっと小っ恥ずかしかった。

 長々と書いておいて何だが、そんな経緯はどうでもいいのである。思い返して感傷に浸るタイムに読者を付き合わせて誠に申し訳ない。

 こんなに、わざわざ追悼記事まで書いているくせに実は祖父のことなんてほとんど知らないのだ。遠いとはいえ隣市だし母は足繁く実家に通っていたのに。自分が生まれて2×年も時間があったのに。
 わたしが知っている祖父は寝ているか酒を飲んでいるかがほぼ全てと言っても過言ではない。後から伯父に聞くと「まぁあんたがウチに来てた頃は爺やんはちょうど定年退職して酒浸りやったからな」とのことで、確かにその言葉通り祖父の印象として挙がるのはいいちこのデカいボトルくらいのものだ。後から「そういえば母の実家でバーベキューをしたこともあったな」と思い出しはしたものの、ちゃんと覚えているのはムクムクした雑種犬と戯れていたことくらいだし、母が語っていた旅行の思い出は当時2歳かそこらともあって殆ど記憶にない。他にもお葬式で親戚や両親が祖父に関して色々話していたが、ほぼ全て自分の知らないエピソードだった。

 そんな中、一つだけよく覚えていることがあった。それがこの記事の見出し画像にしてあるブリキの缶の話である。
 わたしが母の実家に行くとたまに祖父が寝っ転がっている部屋から声をかけてきて、「小遣いやるわ」とわたしたち姉弟にあの缶を差し出していた。中には雑多に小銭が詰まっていて、よく弟と分けて持ち帰ったものだ。後から聞くと財布に溜まってきた煩わしい小銭をざらざらとまとめて入れていたんだろうとのことだったが、当時小学生だった自分たちには心躍るひと時であった。

 しかし、たったこれだけである。

 書いていて悲しくなるが、たったのこれだけなのだ。関わる機会は多かったろうに、小学生くらいの頃のたったそれだけの思い出しか手札がないことが非常に悔しい。母は祖父の入院に関するエピソードをやたら持っているし、父も酒を医者に止められてしまった頃の祖父の好物を覚えてお供えしていたのに。自分にはたったこれだけである。
 祖父は勝手に病院から脱走したり飲酒のドクターストップ中にビビッドなオレンジ色の炭酸飲料にハマったりするようなファンキージジイだというのに、それを裏付けられる独自エピソードが何もないのだ。非常に悔やまれる。自分も「マジで面白い爺さんだったなぁ」とか思いながら見送りたかった。

 とはいえ、Twitterでは一部のフォロワーさんたちにお馴染みの通り両親との関係はあまり良くなく、両親が母の実家に行っている時間に自室で羽を伸ばしていたのは自分を守るためには致し方ないとも言えるし、中高大と忙しい部活に入っていたり遠方通学だったりとどうしても足が遠退く要素は多かった。大学で留年した頃とフリーターだった頃なんかは「ジジババに訊かれたら面倒くさいから行くな」と止められてすらいた。これらの事情と祖父との思い出のどちらを重んじるか、簡単に天秤にかけられるものではない。そもそも、今思えば勿体ないが、当時無理して両親と行動を共にしていてもゴキゲンな祖父のエピソードが量産されていた保証はないわけである。祖父より先に世を去ることなく概ね健康体で別れの場にいられたことの方を幸運に思うべきかもしれない。

 幸いにも件の缶は形見として持ち帰ることを許された為、現在自室のテーブルに鎮座している。シンデレラガールズの自担コラボの縁で細々と集めていたのと同じキャラクターの柄というのは少し不思議なものだが、グッズと並べて賑やかに飾っていれば祖父も喜ぶだろう。少し落ち着いたら中に瓶を入れて花でも生けようか。

 まぁ、きっとあの祖父のことなのであの世でも騒ぎを起こしながら愉快にやっているのだろう。母がいない向こうでは尻拭いをする人がいるのか心配にもなるが、わたしが行く頃にはまた近親者に叱られながら飲んだくれて笑っているんじゃないだろうか。
 あの頃は酒なんて飲めなかったけど、次に会うときが来たら是非祖父と乾杯したい。そして肴として向こうで起こした珍事を聞かせてもらうのだ。

 結局何が言いたいのかわからなくなってしまった。お見苦しい文章を晒して恥ずかしいばかりである。ここまで付き合っていただいたことに感謝が尽きない。
 祖父の生前のファンキーっぷりに想いを馳せながら、今回はここらで筆を置かせていただく。

【余談】
 例の缶(形状的にはゴミ箱)を何の気なしにネットで検索してみたらそこそこなプレミアがついていて驚いた。
 もちろん手放す気はない。

【余談2】
 2日後に伯父から電話がかかってきた。曰く、わたしのひいひいじいちゃんにあたるクソ野郎が稀代のクソムーブをしたせいで土地の権利関係で大いに面倒なことが起こっているそうだ。
伯父「なんとか俺らの生きてるうちに頑張るけど、もしアカンかったらごめんな!」
……勘弁してくれ。

わたしへのサポートはクラゲの本を買ったりプロテインを買ったりするのに使われます。