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人生の軌道を変えた一曲を求めてさまようサウダージな旅の記録 『ジョアン・ジルベルトを探して』 映画レビュー

 人生を狂わせるものは、ごくさりげないものだったりする。運命の女は絶世の美女であるとは限らないし、旅先ですれ違った人のたった一言で、二度とは戻れない選択をすることもある。あの映画を観ていなければ、いまごろはもっと穏やかな生活をしていたという人もいるかもしれない。面白いのは、同じ状況にあっても、まったく影響を受けない人もいるということだ。それは完全に一人称的な体験なのだと思う。

「他の人がどうだったかは知らないけれど、私にはそうでしかなかった」

 これが幸せなことなのか、破滅への導線なのかはわからない。ただそういうことが、ある時期のある人にはある、ということは間違いない。

 『ジョアン・ジルベルトを探して』は、ブラジル音楽を愛するフランス人の監督、ジョルジュ・ガショが、ボサノヴァの神様と称されるミュージシャン、ジョアン・ジルベルトに会おうとしてブラジルを旅するロード・ムービーである。ボサノヴァの名曲とともに、ジョアン・ジルベルトゆかりの人々や、音楽を愛する市井の人々が登場するので、音楽ドキュメンタリーとしても楽しむことができる。しかし基本はやはりロード・ムービーであると思う。なぜならこの作品は関係者のコメントを集めて、ジョアン・ジルベルトに多角的に迫ることを目的に編集されたものではなく、ジョアンの音楽に魅せられてしまった人間の一人称的な声とカメラで構成されているからである。

 語り手でもあるガショ監督の声は、あるときは死者に向かい、あるときは自らの内側に向かって発せられる。どうしても会えない人を探す人の視線のようにカメラは不安定に揺れ、ときおり必要以上に対象に接近して全体を見失わせる。

 特徴的なのは、語り手が一冊の本を元に旅をしていることである。本の筆者はマーク・フィッシャーというドイツ人のライターだ。彼はジョアン・ジルベルトのデビューアルバム『Chega de saudade (想いあふれて)』におさめられた「Ho Ba La La」という曲をきっかけに、ジョアンの音楽に取り憑かれる。そして、どうしてもその曲を本人に歌ってもらう必要があると思いこんで、10年以上も人前から姿を消しているジョアン・ジルベルトを探す旅に出る。結局彼はジョアンに会えないまま、その旅を記録した本が出版される1週間前に自殺する。

 ガショ監督が、マーク・フィッシャーの思いを受け継ぐために旅にでたのかどうかはわからない。不安定なカメラの動きを見ていると、そもそも監督自身も旅の目的を明確にわかっていないような気さえしてくる。ただ追わずにはいられなかったという切実さだけが明瞭に伝わってくる。

 語りの声はガショ監督であるが、観客はときおりこれはいったい誰の声なのだろうと戸惑うかもしれない。監督自身のものなのか、マーク・フィッシャーなのか、マーク・フィッシャーの妄想が生み出したジョアンのゴーストなのか、もしくはたまたま今隣に座っている人のつぶやきを空耳したのか。あるいは自分の声なのか。そこにジョアンの内省的で抑制の効いた歌唱とギターが重なり、言葉にならない思いが胸の中を通過していく。

 サンバやボサノヴァの歌詞によく使われる言葉に、「saudade(サウダージ)」がある。「郷愁」や「懐かしさ」という言葉に訳されることが多いが、それは単なるノスタルジーとは異なると言う。他の言語には翻訳できないとブラジル人が自慢する言葉だ。
 他の土地に住むものがその意味を本当に理解することは一生できないのだと思う。それはサンバを技術的な定義では説明しきれないことと同じなのだろう。でもこの映画を観ているあいだに通り過ぎていったあの感覚は、サウダージに近かったような気がする。無理やり言葉にすれば、それは届かないとわかりながら、手を伸ばすときのあの感覚によく似ていた。

 ジョアン・ジルベルトが好きな人が楽しめるのはもちろんだが、この作品にもっとも感じ入ることができるのは、たった1曲で人生が狂うという事象に身に覚えがある人かもしれない。

追悼:ジョアン・ジルベルト 

 今年の7月6日に、ジョアン・ジルベルトはリオデジャネイロにある自宅で88年の生涯を終えました。訃報を聞き、とても寂しい気分でした。ジョアンという雨が永遠に止んでしまったと思ったからです。

 私は1度だけジョアンのコンサートを観ています。2006年に東京国際フォーラムで行われた来日公演です。座っているのに落ち着きなくスウィングするジョアンの膝を見て、銀行の頭取のような格好をしているけれど、やっぱりサンバの人なんだなと思いました。そして雨のような音楽だなと思いました。素晴らしいコンサートは他にも観たことがあるけれど、自然現象と同質だと感じた音楽は、後にも先にもあのときだけです。コンサートのチケットをとってくれた人が、「時間どおりに始まらないかもしれないよ。最悪、中止もあるかも」と言っていたことにも合点がいきました。雨は降るときは降るし、降らないときは降らない。そして止むときは止む。
 ジョアンが亡くなったということは、私にとってはあの雨が地球上から消えてしまったということでした。

 でも最近、たまたま学校の課題でサンバやボサノヴァのことを調べていて、おやっと思う記述を見つけました。

 アルバム『Chega de saudade (想いあふれて)』のライナーノーツにアントニオ・カルロス・ジョビンはこう書いているそうです。

「ボサノヴァは愛を歌うロマンチックなもので、静かで平和的なものだが、それが休みなく果てしなく続いていくところが特徴だといえる」

(クリス・マッガワン、ヒカルド・ペサーニャ著『ブラジリアン・サウンド』P.96)

 ジョアンの音楽は今もどこかでくるくると回っているのかもしれません。ただこれまでとは軌道が変わって、私たちからは直接は見えないところに行ってしまっただけで。

(参考文献)
・クリス・マッガワン、ヒカルド・ペサーニャ著、武者小路実昭、雨海弘美訳『ブラジリアン・サウンド』シンコー・ミュージック、2000年
・B5ブックス(林伸次・保里正人)著『ボサノヴァ』中央出版、2004年
・ウィリー・ヲゥーバー著『ボサノヴァの真実』彩流社、2013年
・細野宏通『うたのしくみ』ぴあ、2014年

 marrさんの「ジョアン・ジルベルトガイド」も参考にさせていただきました。とても詳しくて読み応えがあります!


最後まで読んでいただいて、ありがとうございました! そこにある光と、そこにある影が、ただそのままに書けていますように。