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はじまりの日

ある午後の日、僕は友人の車に乗っていた。いや、引っかかっていたという表現が適当かもしれない。道を歩いているところ声をかけられ、おうひさしぶりと後部座席の開いた窓から話していたら、車内に顔を突っ込みすぎたのを面白がって車を発進させやがったのだ。仕方なく車にしがみつきながら彼のおふざけに付き合っている。所詮田舎の一本道だし落ちてもケガもしないような徐行運転、彼は決してイカれた奴じゃなく、なんだかんだ常識人であることを僕はよく知っている。彼は裕福な家に生まれたせいで、自分の努力が本当に自分の実力だと認められないことに悩んでいると言った。しかしこんなばかでかい父親のBMWを乗り回しているからそう見られるんじゃなのかなと僕は思うし、それを誰も彼に言わないことが彼の問題だ。こんな状況で人生相談してくるところとか、どうも一本抜けている。だけれど彼の努力は本当だしなによりいいやつだ。僕は、なんとか車内へ滑り込んだあと、君はよくやっているよと褒めてやった。
彼は父の友人の家に車を停めさせてもらっていると言い、降りるタイミングを失った僕は結局そのまま一緒についていくことになった。

彼が叔父さんと呼ぶ彼の父の友人宅は野原にポツンと建っていて、車のまま家の中まで入っていくような変わった形のガレージで、ぶつからないよう慎重にゆっくりと進み、一番奥に車を停めた。あまりにゆっくりなので僕は途中で車からひょいと降り、退屈な作業を後ろから見ていた。家の主人であろう叔父さんと友人が会話をしているのを遠巻きで眺めていると、目があったので軽い会釈をし、どうもと抑揚のない挨拶をした。立ち振る舞いがとても穏やかな人物で好感が持てる。
するとその叔父さんは手招きをして、僕を奥の方へと呼び寄せた。なんだろうと彼のいる方へ向かうと、ガレージの横壁に扉があることに気がついた。その前あたりに立ったとき叔父さんは、なにも言わず家の中へつながっていると思われる襖のような薄い引戸を、滑るようにすうと開けた。

そこは窓もなければ電気もついていない薄暗がりの部屋で、靴を脱がなくても手が届く位置にベッドがあり、ふくらみから人が寝ていることだけがわかった。
叔父さんの意図が分からないまま中を覗きこんでいると、目が慣れてきて、ベッドに寝ている人の顔がゆっくり浮かび上がってきた。


四年前に亡くなった妻だった。


病気で旅立った妻だが、僕が覚えている最後の姿よりも若干血の気があり髪も残っていた。
あまりの驚きにどうしていいのかわからず立ちすくんでいると、気配に気がついたのか妻はゆっくりと目を開けてこっちを向き、いたずらをしたときのようなちょっとふざけた感じで、か細く言葉を発した。


「どうだぁ、すごいだろぅ」


妻はまだ生きていた。しかし病気が回復したのではなく、精一杯の強がりの言葉だということはすぐわかった。たった一言でよほど疲れたのかすぐ目を閉じてしまった。


「調子、、良さそうだね」


毎日の見舞いに繰り返し唱えた、そんなわけあるはずがない言葉を、さも当たり前のようになんとか捻り出し、動揺に気づかれないよう何かしなくてはと、布団から唯一出ている頭を撫でようと手を伸ばした。でも、それはもう、どうしてもしてはいけない気がして、手の甲でそっと頭に触れた。手のひらが汚れているからと無理矢理な言い訳をした。それでも妻は満足そうだった。猫がゴロゴロと喉を鳴らしているみたいだった。

頭の中がグルグルと回る。この春で丸四年になる。三年九ヶ月の間、妻はここで生きていたのか。そんな馬鹿な。確かに葬儀を上げたはずだ。ああそうだ、あれは夢想だったのだ。周りの人達を全て騙すための壮大な嘘。本当は、看病に疲れ果て妻を一人薄暗い部屋に押し込めて、僕は逃げ出したのだった。自分自身が嘘を本当と信じきって暮らしてきたが、今はっきりと思い出した。
これからどうしたらいいのだろうか。頭の中は平衡感覚を失ったようにグルグルと回り続ける。周りにも早晩伝わるだろう。そうなったらもうここでは生きていかれない。
僕はもう頭の中が墨で染めたように真っ暗になって、ロボットのようにただ続けている手の甲で頭を撫でる不自然な動きを止め、黙ってその部屋を離れた。

自分の体じゃないような足取りでガレージを出て、敷地外の何もない草原と家の周りを取り囲む基礎の段差に腰を下ろす。心とは裏腹に雲一つない虚無の晴天。青空ではない白い白い晴れ。


空を見上げ、彼女を想った。
僕には今、恋人がいる。妻が死んだ(と思い込んだ)後、心の整理がつくまで3年。前を向いて新しく生きて行こうと決めてから、必然的に彼女と出会った。人生を共にする相手だけが持っている波長がピタリと合う感覚。出会ってすぐにわかった。ああこの人は特別な人だと。しばらくして、ほんのきっかけ一つであっという間に恋に落ちた。それは彼女も全く同じだった。そしてお互いの気持ちをはっきりと伝えあったのがほんの2日前。世界はバラ色に染まりはじめていた。

彼女になんと言えばいいのか。

「実は妻は生きていて、僕は結婚しているんだ。
あなたが好きだけど、一緒には生きられない。」

今、この世で一番大切に思っている人に、思いつき得るこの世で一番残酷な言葉を伝えなければならないのか。なんたる非業!なんたる地獄!

焦点を定める場所のないどこまでも平坦な空をぼうと見上げていた。
すると、パンツのポケットの中にあるiPhoneがメッセージを知らせるジェスチャーで二回ヴッヴッと揺れた。
気のないまま、1日に何度も繰り返す無表情な動作で画面を見ると、届いたメッセージは妻からだった。


「大丈夫。わかってる。」


三年九ヶ月ぶりに既読がついたメッセージには、そう書かれていた。

するとさっきまでのただただ白く虚無の景色が急に渦を巻き、全てが銀色に輝き出した。そして、天候のくずれた乗鞍岳の山頂にいるように自分の手さえ見えない程の銀煙に包まれた。やがて霧が晴れると銀色の本が一冊、僕の手に乗っていた。本と呼ぶにはいささか大仰で、上製本したノートブックのような、A4サイズを少しだけ小さくした、美しい仕立ての一冊だった。僕はゆっくりと、このサイズに不釣り合いな厚い表紙をめくり、対照的に薄い薄い紙の本文へと手をかけたとき、声が聞こえてきた。


「これを彼女にあげて
あなたの今までの言動から、こんな時はどうしたらいいかが書いてあるから
まあ取説みたいなものね」


その声はちょっと偉そうで少し嬉しそうだった。


僕はめくりかけていたページをパタンと閉じた。


「これはいらない。
これは君と僕の関係の本だ。
彼女と君は違う。
もし同じことがあっても別のことが起きる。
僕と彼女の関係はこれから一から作っていくんだ。
だから これはいらない。」


銀のノートブックは、音もなく、盛大に粉々に弾けた。
文字通り粉が舞うように辺り一面を銀色に染め、空を埋め尽くす夏の最後の花火のように、キラキラと地面に振り続けた。


「ありがとう」

「じゃあね」


僕の中の、自分すら気が付かなかった奥底に、ずっと小さく残っていた妻のかけらが消えていく。

銀の粉が降りやんだら、真っ先に彼女へ愛を伝えよう。






It's a new dawn

It's a new day

It's a new life

For me


and I'm feeling good






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夢の書き起こしアーカイブ

07,January,2024
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