松林庵と山王さん(厚木市松枝の民話)


神奈川県の中心にある厚木市。この「厚木」という地名が書物に登場するようになるのは南北朝時代と言われていますから、今からおよそ700年ほど前のことになります。
地名の由来はいくつかありますが、そのうちのひとつに、大きな川があるため、山から切り出した木を川を利用して運び、集めておくのにちょうどよかった。このため木を集める「集め木」から次第に「厚木」という呼び方に変化していったという説があります。集まった木を売り買いしていたということがわかる地名が「木売場」というバス停の名前に残されています。
これからお話するのは、小鮎川が相模川に合流する少し手前のこの木売場あたりに残されている江戸時代中ごろの物語です。

田んぼが広がるこの地域は、小鮎川を挟んで南側が厚木村、北側が妻田村と呼ばれていました。人々は皆穏やかで真面目で、毎日農作業に励んでいました。
お茶の時間ともなると、妻田村の人が川べりまでやってきて
「厚木の衆よォ、こっちへきてお茶でもどうよ」
「おぉよォ。うちでたくわん持ってきたからよォ、一緒に食べるべぇよぉ。」
また別の日は厚木村の人が妻田村の人に声をかけるなど、二つの村はとても仲が良く、すぐ近くの妻田・山王社でお祭りがあれば、厚木村の人も呼ばれて一緒に祝っていたと言われています。

ある年のことです。日照り続きで雨がほとんど降らず、田んぼが干上がってしまいました。土はひび割れ稲はどんどんしおれていきます。このままでは飢饉がやってきます。お百姓たちは、雨乞いのため大山阿夫利神社にお参りに出かけました。
大山はまたの名をあめふり山とも呼ばれています。山頂の阿夫利神社にお参りし、滝の水を汲んで休まずに村まで戻ると恵の雨が降ると信じられていました。村までおよそ十八キロの道のりですが、途中で休憩するとその場所に雨が降ってしまい、ご利益がなくなるとも言われていました。
雨乞いの甲斐も無く、どれだけ待っても雨が降る気配はありません。静かに流れる小鮎川を見ては「この水を田んぼに引くことができたらなぁ」とため息をつくしかありませんでした。

ある夜のこと、川のほとりでヒソヒソと話をしている人がいます。
「早いとこやっちまうべぇよ」
「夜のうちに終わるべぇか」

あくる朝、厚木村の人がいつものように田んぼに来てびっくり。小鮎川に土の俵を積み上げた水路がつくられ、水の流れが妻田の田んぼに向かっているではありませんか。
「こりゃぁ大変だぁ!水が全部持っていかれちまぁよぉ!」
厚木のお百姓たちは、鋤、鍬、天秤棒など思い思いの道具を持って、総出で妻田村に作られた水路を壊しにかかりました。対抗する妻田村のお百姓たち。村をあげての大喧嘩です。
とはいえ、元々仲が良かった二つの村のこと、この水喧嘩に心を痛める人もいました。
「そうだ、和尚様に相談してみるべぇよ」
そのお百姓が駆け込んだ長福寺は厚木村の田んぼの際にあり、東陽和尚は力持ちなことでも有名でした。どれほどかというと、こんな逸話があります。

ある時、東陽和尚が馬に乗って江戸に向かっていたところ、途中の川で橋の架け替え工事が行われていました。この川を渡らなければ江戸へは行かれず、かといって川底の足場も悪く、馬の足では到底無理です。
こうした場合、大抵は川づたいに上流か下流の橋を探すでしょう。しかし力持ちの東陽和尚は「むぅ」と考えると今まで乗っていた馬をひょいと担ぎ上げ、ザブザブと川を越えていったということです。

このように力持ちの東陽和尚は、お百姓から村同士の喧嘩の話を聴くと、すっくと立ち上がり、表へ飛び出しました。そしてお寺の山門の扉をバリバリと外して担ぐと、小鮎川へまっしぐら。川の中にドーンと扉を突き立て、水の流れを厚木村の田んぼの方へ変えてしまいました。突然の出来事に喧嘩をしていたお百姓たちはびっくり。
こうして、村を挙げての水げんかは厚木村の勝ち。厚木村の人たちは勝利を記念して、この場所に「勝利庵」という東洋和尚のための庵を開き、裏の小高い丘に妻田村の山王社を移してきて祀りました。
のちに勝利庵は「松林庵」、山王社は「日枝神社」と呼ばれるようになりますが、小鮎川を挟んだふたつの地域、今でいう松枝町と妻田の歩いてほんの十分程度のところに同じ名前の神社があるのにはこんな経緯があったということです。

ところで水げんかのその後ですが、東陽和尚は妻田村が引き込んだのと同じくらいの水が厚木村の田んぼに流れ込んだのを確認すると、ふたつの村のお百姓を集めて言いました。
「厚木の衆も妻田の衆もよく聞きなさい。日照り続きで苦しいのは皆同じです。誰もが水を欲しがっておる。川の水は誰のものでもないのです。こういう時だからこそ、皆で知恵を出し合い、仲良くするのですぞ。」

東陽和尚の長福寺は今は厚木市寿町にあります。歴史を感じられる山門の扉はこの時に使われたものだともいわれています。

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