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【日記】お人形|こどもの頃の日記から 1

10歳になる少し前、母から1冊のノートを渡された。
「日本語を忘れないように、これに日本語で日記を書きなさい」と。

光沢のある朱色のノートの表紙には、ボールペンで母の手書きで
「日記」
漢字で書いた私の氏名
と、
英語の筆記体で Sumi *FamilyName* とあった。

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196X年8月XX日 木曜日

晴れ あたたかく 風さわやか

昼食を食べる前、みんなでいちば〔市場〕へ行った。
野菜などを買っていると、Mさんが来た。
買い物をすませてみんなで帰った。

帰り道にショーウィンドウにお人形をかざっているお店があった。

父や母は私の誕生日に、みんぞくいしょうを買ってあげようと思っているらしい。
「私はみんぞくいしょうもほしいけど、お人形もほしいな」と思った。

Volksgarten にコンサートをききに行った。

たあぼうが、ろう下でころんで鼻血を出した。

中か〔華〕料理店で夕食だった。
夜、ドナウうんが〔運河〕にさんぽに行った。


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市場は徒歩圏内で行けた教会の広場から細長い石畳の道沿いに屋台が並んでいる伝統的な Markt で、野菜と果物とチーズのお店が多かった。

民族衣装とはオーストリアの Dirndl のこと。結局は Dirndl も買ってもらったのだが、誕生日プレゼントには親の決めた服ではなく、人形が欲しいと書いているほど私は「こども」だった。

こどもなのに、「父や母は」と背伸びした表現を使っている。日本の学齢で言えばまだ小学校4年生だったのに。

帰国後に入学した日本の高校で同じクラスの子との会話中に「母は…」と言ったら、その子が「母、だって…」と笑ったのを思い出した。

そうだ。日本の高校では、友達との会話で自分の親のことを話題にする時、「母は」とか「父が」とか言うと、からかわれた。

他の「ふつうの」子たちは「ママは」「パパが」「おかあさんは」と言っていた。

友達に母との会話を再現していた時に「彼女の考えは」と言ったら「え〜、自分のママのこと言うのにカノジョって使う人、初めてみた」って言われたことも思い出した。


ウィーンの中華料理店。当時はまだ日本料理店は無かった。中国料理のレストランも市内に3店ほどで、どれも高級な店だった。

照明はシャンデリア、スタッフは黒服の男性。白いクロスをかけた木製のどっしりとした大きな丸テーブル、ナプキンも白い布製で箸は象牙だった。

食事の後にドナウ運河沿いを散歩できる地区にあったのが Peking だったのか Golden Dragon だったのかは忘れてしまった。