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親と縁を切った

もう7年も前になる。

「娘は死んだものと思ってください」
「自立してください」
と伝えた上で、実家の電話番号を着信拒否した。
新しい住所は知らせなかった。
それっきりだ。

両親は離婚している。

父親とは一緒に住んでいた記憶がほぼ無く、家族という実感は薄い。
その父とは今も関係が繋がっている。

なのに女手一つで子供を育てた母との縁を切ってしまった。皮肉なものだと思う。


縁を切ったら楽になったりせいせいしたりするかというと、まったく違った。
物理的な関わりを断つことでの安心感はあるのかもしれない。

けれど脳内の親は消えない。
親から投げられた言葉は再生される。

親を捨てた罪悪感も重くのしかかった。

実家の夢を見ては叫びながら目覚めることを繰り返した。


自分は間違っているのではないかと、実家に電話をしそうになったことが何回もある。

けれど踏みとどまった。

私は「良い娘」になりたかった。

そして「暖かい親子関係」がほしかった。憧れた。

けれどそれは現実にはあり得ない。
母と関わってきて多く傷付いてきたし、これからも傷付き続けるだろう。

だから縁を切ったのだ。


親と絶縁している自分が心底嫌いだった。

毎年母の日が不愉快だった。
年末年始帰る実家がある友人を恨めしく思った。

嫌な自分。
自分は人として何かが間違っているように感じる。
自分の決断を自分で呪っている。
延々とそんな自分を嫌いになる。

そのループから出る方法はずっとわからなかった。


今年になって、こんな本を読んだ。
タイトルで即買いしたのだった。

『幸せになるには親を捨てるしかなかった』


大泣きしながら読んだ。

“相手に本当に愛されていれば本能的にそれがわかるものですが、私が母からの愛を感じることはありませんでした。”p32

“なぜ愛する家族が、そこまで冷淡になれるのでしょうか。
答えは残酷です。あなたがどうでも良い存在だからです。”p50

その通りだった。
あまりに悲しかった。けれどそれが事実だ。自分がよくわかっている。私の親は、人を愛する能力を持たない人なのだ。
私たち親子関係に、愛情関係はない。
支配し、傷付ける関係しかない。
まともな人間関係はそこにない。

吐くほど泣きながら、その事実を噛みしめるしかなかった。

私は、親と絶縁した自分を肯定してくれる言葉をずっと探していたのだ、と思った。


6月にはこの映画を観た。
『ウーマン・トーキング』

『ウーマン・トーキング 私たちの選択』

ネタバレになってしまうが、この映画の女性たちは、自分たちを虐待し傷付けてきた男たちから「離れる」という決断を取る。

「とどまる」のでも「戦う」のでもなく、「出ていく」。離れて生きていく。

“トーキング”とタイトルについているように、女たちの会話で映画は進んでいく。

なぜ、故郷を捨て「出ていく」のか?

自分を守り、誰も傷つけず、傷つけられることを拒み、被害者と加害者を作らず、愛する者を愛して生きていく。その唯一の方法が出ていき、離れることだった。

女性たちの対話を通じ、答えを導き出す過程が丁寧に描かれていく。

その映画のラストが自分の中でストンと落ちた。
ああ、私の決断もこのように間違っていなかったのだ、とやっと思えた。
長年抱えてきたものが、スッと楽になるのを感じた。



最近は実家の夢を見ることはほとんどなくなった。

こうして振り返れるようになって、
現在も続く苦しみではなく、本当の意味での過去になってくれたのかもしれない。

親に対し酷いことをしたのだという自覚はある。
それでも自分の決断を今は肯定できる。

苦しみ抜いて良かったと思う。

今は罪悪感もない。

自分が嫌いでもない。

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