寄付に対する思い

寄付した時の様子

 先日、デパート前の広場で「国境なき医師団」の寄付をやっていた。この街に来て約一年たち、何度か赤い服を着た医師団の寄付の協力の様子を見ていた。今まで駅前やデパート前の広場でやっている活動は、医師団を含めると、政治活動や音楽活動など多種多様なものが広がっていた。正直言って私は、こう言った活動を目にしても何も感じない。政治活動などに関しては避けていた。横を通り過ぎると何か言われたりさせられそうで怖かったというのが1番の理由だ。しかし、今回私はふと足と止め、寄付をしようと500円はあったかどうかを確認しに、一旦通り過ぎたもののまた戻って寄付しようとした。

 寄付の協力をお願いしていた赤い服を着た方達は私の姿を見て少し驚きながらも、協力ありがとうございますと何度も言ってくれた。その時私は全身黒に包まれ、12センチのヒールを履いており、買い物帰りのバケモノだったのだから、多少驚きはあってもいいが、こんなに何度もありがとうございますと言われたのは久々だった。

寄付方法のデジタル化?

寄付の方法がコロナ禍もあってか現金を直接受け取ることはできなくなっているらしく、銀行口座の引き落としかクレジットカード決済というものに変わってきていた。学生で未成年の立場上、クレジットカードは持っていなかったが、銀行のキャッシュカードがあったため、そこで毎月500円の寄付をした。寄付はいつでも止めれるそうだから、少しお金にきつくなったらやめることも可能だ。アンケートのようなものを記入するとき、係の方が「女性にチェックを」と言われたが、私は男性にチェックした。声も名前も男で、逆に女性にチェックすることに抵抗があったからだ。まあここではそこまで深く悩んだりすることもなく、すんなり男にチェックできたのは、私が「女装家」であり、男という考えがあるからだと思う。「これ以上この問題について語ると長くなりそうなのでこの辺で」

慈善活動募金への毛嫌いの理由

 私は国境なき医師団の活動は知っていた。テレビや雑誌、学校の授業などで情報や活動を知っていた。だが、私はこう言った活動の協力をしたことがなかった。24時間テレビでさえしたことがない。24時間テレビは、なぜかしようという意欲はなかった。それはやはり、24時間テレビという存在に対して懐疑的なものがあるからだ。チャリティー番組ならテレビギャラが発生するのはおかしなことだし、障がいを持つ方が困難に取り組み、乗り越えるという姿を毎年見せて涙を誘うテレビ構成が私はそもそも苦手、いやおかしいと思っていた。確かに困難に対して乗り越えることは美しいことなのかもしれない。でもそれをテレビで大々的に取り上げ、涙を誘う。そして私もがんばんないといけない、そう言った気持ちにさせることが嫌いだった。障がいを持って生まれた人を自分より下に捉え、ハンデを持ってる人をカメラで撮影する。撮影されたくない、そんな人もいるはず、障がいを受容することがうまくいってない人たちが、それを見てあんたも頑張るのよ!って言われたりしてるのかもしれない。そう言った状況が想像できてしまう。まるで障がいを特別扱いしているような感じが嫌いだった。うまく文章に表せないが、そう言ったモヤモヤもあり、寄付というものに参加すると、そう言った活動を支援しているという感情になり、してこなかった。

しかし、今回は何故か違った。それはやはり国境なき医師団という活動だからだろう。このコロナ禍で頑張っているのは間違いなく医療関係者の方々だ。自分の時間や心身、家族や友人の交流も捨てて携わっている人たちへの少しでも支援ができればという思いがあったからだろう。

そして私が買い物帰りだったというのも関係すると思う。その時私はお気に入りのコートが半額で買えてウキウキだった。しかし、おっきなお金を使ってしまったという罪悪感が少しあった。その罪悪感を埋めるかのように寄付したというやましい感情もあったことも認める。

これから

 寄付してみて、私は少し正義感が出てきた。しかしその正義感はただ単純にお金を払ったからというものであってはならないと感じた。お金を払うだけで天国や極楽浄土に行けるのなら皆お金を出すだろう。やはり善行というものは自分の心から行うものなのだと感じた。

 ここ最近、私は自分の心が病んでいた。その病みからぬけだそうとその正義感で立ち直そうとしていたのかもしれない。

 献血もそうだが、自分の身を犠牲にして人に尽くすことは多少なりとも必要であり、それが度を過ぎてはいけない。それを私は少しずつだが勉強していこうと思った。

文章がめちゃくちゃになっているかと思いますが、ご容赦の程を

 

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