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「私は」どうしたい?

今朝ウォーキング中に、目の前を1匹の飛び虫が素通りして行きました。


「……?!」
そんな反応で思わず二度見したのは、北国に生まれてウン十年、冬真っ只中で目にする光景にしては珍しかったからです。(苦手意識から、彼らの動きには人一倍敏感でもある)


まあもしかしたら、いつもより暖かく雪も少ないため、「勘違いしたかな」なんて思いながら、ふと、昨日の母とのやり取りを思い出していました。


それは、出掛け先で母が「しめ縄飾り、今年は意外と少ないんだね」と言った時のこと。

我が家が喪中だったことで、「うちと同じ」飾っていない家に目が向きやすかったのかもしれませんが、そういえば車のナンバープレートの上?にもあの飾りを付けて走っている車なんて、近頃ではもっと見かけない。


そこで母が「昔はよく見かけた、それが当たり前だったのに」とか、「こうして日本の伝統は無くなっていくんだね」とか、確かそんなことを話していたと思うのですが、相槌を打ちながら私は、それとは全く別のことに驚愕をしていました。


「これって、こういうもの」

「こういう時には、こうするのが当たり前」

だから◯◯しなきゃ、◯◯意外に選択肢は無い―

そうやって何の根拠もなく決めつけ、一切疑問を持たず、そこで感じていたであろう自分の違和感に立ち向かう事もなく、ただただ周りの正解や常識に委ねてきた自分の横柄さを、改めて実感してしまいました。


小さい頃から「うちの母が一番正しい」という、偏った価値観が今でもだいぶ染み付いていて、特に一般常識、礼儀作法、世間体などと言われる部類に関しては特に、母(家庭内)の影響が強い印象は自負しておりました。


でも、それって本当なのか。

それ以外の、選択肢はなかったのか。

そもそも時と場合によって、決して「◯◯じゃなくて良い」時もあるのではないか―


先人の知恵ではないですが、そういった古くからあるものや既存の価値観など、確かにそれらが信じられたり語り継がれてきた年数に、私程度の疑問や価値観なんてまさに「比べ物にならない」。

それを理由に、「自分の答えを見つける」ことから単に逃げてきただけ、ただそれだけなんだと思いました。(見つけたくない自分に気付きもしましたが、この傷はまた別の機会に…)


でも本当は、「比べものにならない(誰かとそうしても意味が無い)」からこそ「私はどうしたい(どう思う)か」に早々に気づくべきだったのに―


そうやって、紆余曲折しながらも見つけた自分だけの答え、その「本心」を掴み続けるんだと、改めて自分の心に誓いました。


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年が明け、悲しいニュースを続けて目にします。


今はただ、願う事しか出来ません。




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