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俳句甲子園における弁論術について

今年の8月の第26回俳句甲子園に行きました。松山を訪ねたのは2016年以来なので7年ぶりでした。

あらかじめその予定はなかったのですが、角川「俳句」2023年11月号に俳句甲子園レポートとして「戦友たちの横顔」という文章を書く機会に恵まれました。


しかしながら、そちらは紙幅的にも時評・総論的な書き方をし、特に当事者の高校生には読まれないことを想定して書いています。俳句雑誌なので、俳句甲子園の本筋である「教育」の側面は意図的に主題にせず、「高校俳句界というものが仮にあるとしたら、いまそこにどのような構造が生まれているのか」という意識をテーマに書きました。


一方で、観客として感じたことや、長らく忘れていた記憶(出場していたのも10年前のことです)が急に蘇ってきたフシがあったので、与太話まじりの雑感を投下しておきます。「俳句」の文章はマクロな話が多いですが、こちらは戦術的な、ミクロな、ディベートの話が中心です。

誰に向かって書いているというわけでもないのですが、今となってはどの学校とも利害関係のない一観客が思った「外野」の発言として受け取っていただければと思います。

大前提として、よい俳句が書けることがディベート力の大前提ですし、日々の句会における評言が鍛練の核であることは真実であるので、それに比べたら以下のあれこれは取るに足らないことです。


観客は選手が思っている8倍くらい話を聞いていないから、伝わらない。ワンメッセージを丁寧に伝えなければ伝わらない。これは聞き手の俳句の能力というよりは人体としての能力、つまり体力的な問題や物理的に声が聞きとれないなどの問題による。

いざいろんな会場をフラフラしていて気づいたが、特に一日目の大街道は午後にもなると審査員も集中できておらずキョロキョロしていたりする。無理もない。僕が審査員でもきっとそうなると思う。だからこそ、抑揚と聞き取りやすさが1日目は特に重要だろう。

口からマイクが遠いせいで、良いこと言っていそうなのに全く審査員・観客に響いていないという場面を何度か見た。マイクのマネジメントは見落とされがちだが、かなり重要だと思う。マイクは垂直に音を入れないとちゃんと集音されないし、鼻息と口からの息の交点(口から5〜10cmくらい離れたところ)に位置させないと撥音を拾わない。弁論術よりはるかに大切だと思う。

特に大街道のA、B会場までは、パチンコ屋の自動ドアが開く瞬間や唐突な坊っちゃん列車の汽笛で一発アウトを喰らう可能性がある。前者は運営サイドが配慮してくれるようになってある時からパチンコ屋前に会場設営されなくなったが、後者は健在。汽笛が終わるのを待っても良いレベル。

30秒ルール(発言は30秒まで)自体はとても良いルールだと思う。一方で、攻撃側の立場に立つと、その裏返しで、互いに30秒フルで話すと「攻撃側が言い逃げをして終わらせる」ということができなくなってしまった。攻め手のタイムマネジメントの戦術性という観点からは、むしろ「いかに1回の攻撃を20秒程度で終わらせるか」がキモになった。

レトリックで細かく観客を唸らせることはできようが、結局のところ、1ターン30秒で伝えられるのはワンメッセージだなと思った。聞き手の頭に入らない。守備側も結局ワンメッセージでしか打ち返せないので、メッセージが二つあると守備側としては自チームにとって有利に試合が運べるようなメッセージの方のみを選んで打ち返す動機が生まれるので、そういう意味でも不利だ。

攻めの場合に、相手の句の鑑賞に時間を使いすぎて質問ができないで終わってしまうことを繰り返しているチームがあり、本当に勿体無かった。結論から語り、理由や説明を後付けにしていくという話し方が基本になると良いなと思う。

逆に、攻め側の質問がなかった場合の、守備側のベストプラクティスがまだ発見されていない。相手がうまく攻めてこなかった場合に、語るに落ちることなく自句の話を展開する手法が未開拓。攻撃チーム側に「〜〜という趣旨の質問ですか?」と仮説を持って、5秒くらいで聞き返してしまっても良いのではないかと思う(うまくやれば、攻め手側のタイムマネジメントを狂わせることもできる)。自句側に有利な展開になるように、(常識と倫理の範囲内で)誘導尋問的に聞き返すというのはひとつの技である。

相手をリスペクトして戦うという意識が強いせいか(それ自体はとても良いことなのだが)、表現に問題のある句に対する攻めが弱いなというのが今大会全体を通して抱いた感想だった。

仮説を持って質問するだけで結果は変わるだろう。
例えば「上五の『や』じゃなくて『の』の方がいいのではないか?」という質問だけで終わってしまっているチームをしばしば見かけたが、「その推敲によって、どのような効果が生まれるのか?」を対比するところまで語らなければ、本質的には有効な攻めにならない。

「どういう情感なんですか?」という質問だけで一発目の攻撃を終わらせているチームもあったが、弱い(むしろ鑑賞を丸投げしているように見え、個人的にはネガティブな印象すら受ける)。もっと守備側の豊かなディベートを引き出すためには、「この表現から〜〜というところまで見えたが、そう読まれることを想定しているか?」と、自ら仮説を持って鑑賞した上でマイクを渡した方が良いのではないか。これは句が読めていないとはじまらないので、日頃の句会でどれだけ脳を絞り尽くしているかが問われるだろう。

現役時代は、

攻撃「この比喩から〜〜というところまで見えたが、そう読まれることを想定しているか?」
守備「そうです」
攻撃「だとしたら、比喩が見立てとしてあまりに直接的にすぎないか?」

みたいな感じで、敢えて一発目で読みすぎなくらい読み込んで守備側の言質を取った上で、二発目以降で「パッと見で読めてしまうくらい表現が単調な嫌いがあるのではないか」みたいな攻め方をしていたのを、はたと思い出した。弁論術の一つではあるが、いま思うとあまり褒められたものではない。とはいえ、競技性のあるディベートにおいて、このエッセンス自体が基礎にあることを認識しなければならないとは思う。

そもそも、完璧な表現などない。だから、相手がどんなに良い句を出してきたとしても、気圧されるな。

俳句甲子園における最良のディベートは、ある表現に対して、書き手がどのようなリスクを請け負ってまでその表現にして、作品の質というリターンを得ようとしているのかを理解した上で、そのリスクとリターンの見積もりが正確であるかを検討する営みである。

とはいえ、句の粒がだいぶ揃っているので、最近の大会のディベートにおいては「相手の句を攻め切る」というのは難しい季節になってきている。

となると、互いに攻めきれていないので、どっちかっていうと自チームの句の鑑賞の方で差が出ているな、という印象。

「自句の魅力に気づいていない」もしくは「素朴に良い部分」を語れていない場合があった。練習をしすぎて句にのめり込んでしまい、客観視できなくなってしまう面があると思うので、大会を迎えるまでのどこかしらのタイミングでアンラーニングをするのは大切なことなのではないかと感じた。ディベートではなく、句会でふっと清記用紙に記されて回ってきたとき。お風呂の中でふと諳んじてみたとき。何を思うか、何を感じるかというのに立ち返ってみると、むしろ豊かな語りを得られるように思う。審査員も観客も初見の一瞬では、選手自身が思い詰めているほどは、作品の瑕疵に気がついていない。

噛み合っていないディベートをしているときは、議論が噛み合っていないチームがマイナスに評価されるのではなく、ふしぎと両者ともマイナスに見えてくる。議論が噛み合っていない時は、相手がこちらの質問に対してしっかり受け答えせず誤魔化していることを追及した上で、もう一度同じ質問をし返さなければ是正されない。

「相手の言葉を聞く」「相手の言葉に応答する」それが弁論であると思う。「自らが語ること」は弁論の核心ではない。むしろ「相手の言葉に応答する」という態度においては、沈黙すら弁論になる。

均衡状態で攻め入るのは難しい。したがって、的確な指摘をされた場合はむしろチャンスである。

迎え撃つ守り手にとっての最高のプロセスは、攻め手の鋭い攻めを歓迎し、その攻めを上回るカウンターパンチを繰り出すことである。攻め手が臆病な限り、カウンターを繰り出すこともできないのだから。

「相手の力を借りて投げ飛ばすようにいかに均衡を崩すか?」を考えることが、弁論の第2段階なのではないか。

守りは、提出した句の存在そのもの(とそれに付随する応答)によって責任を果たしているとみなされる。反対に攻撃は、作品の良し悪しを検討するという(沈黙が許されないという意味で)本来明言する必要のない義務を果たさなければならない。この点で、両者は対称ではない。

攻めの方が言論の責任をより無防備に引き受けなければならないという点で、守りよりも難易度が高い。

「攻めの目利き」という観点からは、優れた俳句ばかりを読むことはむしろ害になる。取るに足らない、類想に塗れた、ティピカルな作品を読み続けることの方がはるかに役に立つ。

俳句というジャンルは、審査員を含めた読み手にとって「どこが優れていてその俳句を評価するのか」というポイントは多様だが、「その俳句がなぜ取るに足らないのか」というネガティブチェックの審美眼に関してはかなり一致しているジャンルであるように感じる。優秀句を全員が同じように言祝ぐとは限らないが、評価されない句の評価されない度合いは、あまり変わらないということである。

熟知しない初見の句を検討しなければならない攻めの方が脆弱であり、圧倒的に知のリソースが必要である(このあたりは軍事や兵法の一般論通りである)。

たとえば、攻め手がたいした論理もなく「他の表現に変えた方がいい」という指摘をしてしまった場合。「では具体的にどのような表現がよいのか、いま推敲してくれますか?」とだけマイクを返されるときほど、攻め手が知らず知らずのうちに背水に立ってしまっていたことを悟る瞬間はないだろう。

きっかけは新型コロナ対策だったのかもしれないが、(仮にそれが口実だったとしても)指導者を伴わずに選手だけで即吟しなければいけない現行の敗者復活戦は、選手の地力が試されるという点で非常に良い制度だと思う。かつてはこれをしてしまうと作品の質がどうしても厳しいという時代もあったと思うが、現在の俳句甲子園のレベルに至っては問題ないと思う。そういう意味で、個人的には敗者復活戦にワクワクした。

弁論術については、相手チームとともに互いの弁論を豊かにするために用いられるべきで、決して相手の口を塞ぐために用いてはならない。私には、相手の口を塞ぐために弁論術を用いてしまったという、反省や後悔がある。

今年の俳句甲子園を見ていて、なにがどうであれ「楽しい」という気持ちを第一にディベートをしている口吻の人が多くて、素晴らしいと思った。そこが、昔の俳句甲子園の雰囲気と一番違う部分かもしれない。

派手な演出や巧妙な語り口、鋭い舌鋒は聞き手の興味を引くものではあるが、それで審査結果が変わるかというと案外そうでもないのではないか。審査員や観客は、選手たちが語ろうとした内容そのものによって評価しようとしている点では、あまりブレていない気がする。

一方で、派手な演出や巧妙な語り口、鋭い舌鋒といったそれらによって変わりうるものは何かといったら、それを受けた相手チームの弁論である。それゆえ、それが試合結果を左右することはあるが、直接的な経路ではない、と私は思う。

この大会で脚光を浴びるのは、弁舌が巧みだったり、俳句作品が評価されたりした者たちだろう。しかし、チームスポーツであり、組織である以上は、そんな彼らをリクルートして仲間を集め、まとめ上げた者こそが真に、えらい。そもそも、5人揃わなければ、大会に出場することはできないのだから。組織は、活躍した者ではなく、その人が活躍できるように組織を”作った”者に、最大の栄誉を与えなければならない。

舞台の照明の、ねばつくような熱さを思い出した。
マイクをとった自分の第一声を聞くために会場が静まりかえる瞬間の、灼けた砂丘に取り残されてしまったような感覚。自他の境界としての肌がじりじりと汗ばむ時間。どうか、あの孤独感を味わってほしい。

以上、現地でのメモから


上記は俳句甲子園における「最適化」の諸要素の一部になりうると思いますが、それを踏まえた上で、「最適化」を乗り越えた、オルタナティブに豊かな語りが聞こえてくるディベートをより一層聞くことができたら、幸福です。私の(現状での)基本思想は、こうです。

十年後に限らず、いつの未来も、「読み」こそが、新たな俳句作品を生む力の源であると信じる。それはつまり、読み手ひとりひとりによる「読み」のオルタナティブ性を面白がり、そちらに賭ける、ということである。

大塚凱「『読み』の摩耗」(「俳句四季」2023年1月号)


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