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1995年 近鉄バファローズ(6位)

「球団のスター選手を監督に据えたけど失敗してしまった!」
とある名古屋の球団のファンは何となく思い当たる節はありそうですが、確かにいくら選手としての実績があるとはいえそれが監督としての能力に直結するとは限りません。
その点この年の近鉄はその典型例といっていいでしょう。300勝投手・鈴木啓示もその例外ではありませんでした。


鈴木啓示vs選手たち

88年から仰木彬が監督になると在任期間全てAクラス、89年には優勝もしました。なんといっても89年ドラフトで獲得した野茂英雄の一風変わった投げ方、トルネード投法を仰木はいじらなかったのがその後の野茂の野球人生を築いたと言っても良いと思います。さらにプロ野球初のコンディショニングコーチの立花龍司も良い影響を与えていました。
92年で仰木が退任すると93年からは球団のレジェンド・鈴木啓示が監督に就任。鈴木は現役で317勝を挙げ、鈴木がつけた背番号1は球団唯一の永久欠番でした。しかし鈴木は仰木や立花とは一転前時代的な練習方法を選手に課します。
監督1年目は6年ぶりのBクラスとなる4位で終わると93年オフには立花が退団。これが立花を慕っていた選手との対立を招いてしまいます。

94年シーズンは2位で終わるもオフには89年優勝時のエース阿波野秀幸が巨人へトレード。金村義明が西武へFA移籍(後に自著で『(鈴木は)最低の監督』と評していた)。そして一番大きかったのは野茂英雄のメジャー挑戦でした。「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」とまで言った鈴木とは当然野茂も水が合わず任意引退という形でMLBドジャースに移籍。その後の活躍はみなさんが知る通りです。

また95年開幕前には吉井理人をトレード放出。現ロッテの監督で今でこそちょっと茶目っ気があるおじさんのイメージですが現役時代はかなり鼻っ柱が強い短気な選手でした。94年は5回途中で降板した試合でベンチにグラブを叩き付けたことが監督批判と見なされペナルティを課されると、また9月にはまた途中交代を告げられた際にマウンドに来た投手コーチにボールを渡さずあろうことがそのボールを蹴り飛ばしたことで厳重注意と無期限の2軍幽閉を言い渡されました。結果不満分子となった吉井は西村龍次とのトレードでヤクルトへ移籍したというわけです。

近鉄時代の阿波野(左)と吉井(右)

野手陣

近鉄といえば「いてまえ打線」ですが、この年の近鉄打線は457得点とリーグ最下位。要因は間違いなくR.ブライアントと石井浩郎の絶不調でしょう。
前年は3割近い打率で35HR106打点を記録したブライアントですが、この年は自身最低の48試合出場で.194 10HR 22打点という惨状。この年退団しました。
石井は前年4番で全試合出場していましたが、この年は掛布雅之が持つ361試合4番打者の連続試合出場記録を更新するだけのために4番に座り続けました。しかし5月の試合で右かかとを痛めていたのに試合出場を強硬。5月28日以降は1打席立ってから村上嵩幸に交代するという本末転倒な起用もされます。何とか記録は更新したもののその翌日に登録抹消。万全でもないのにこの起用ですから成績は低迷。プロ入り最低の成績となる47試合 .276 6HR 17打点でした。

ただこの年の近鉄は世代交代の芽が出始めた頃でした。
大幅に成績を上げた若手2選手を紹介します。
1人目は中村紀洋。前年は8HRと期待された若手大砲ですがこの年はプロ入り初の規定打席到達と20HRを達成。95年はプロ野球史で見ると打低のシーズンでHR王が小久保裕紀の28HRで20HR打った選手は11人。その中で一番若かったのが22歳の中村でした。
もう1人は大村直之。93年ドラフト3位で入団すると94年は僅か6試合で無安打でしたが、この年はいきなり打率.270をマーク。15盗塁も決めていてこれはチーム内盗塁王です。こんな2人いたら本当に大きくポジってしまいますね。
みなさんご存じの通り、2001年のいてまえ打線では中村は4番、大村はチームの核弾頭として大暴れ。チームとしては最下位でしたが若手の成長著しいシーズンでした。
↓そんな2人の全盛期も見てみよう!!

投手陣

さて投手陣を見ていきましょう。阿波野や吉井を出して投手陣はどうなったのかというと… だめでした。
規定投球回に到達したのが山崎慎太郎のみ。10勝をしていますが、敗戦数も12と借金を作ってしまいます。
あとは小池秀郎が4勝8敗 防御率3.53、吉井とのトレードで入団した西村は5勝9敗 防御率4.67と大乱調。K%からBB%を引いた値であるK-BB%はマイナスを記録。とても厳しい感じです。
しかもその西村とのトレードで放出された吉井が移籍先のヤクルトでいきなり10勝を挙げたのは悔やまれるところでしょう。野村克也監督の意向で先発での起用がされましたがそれが大ハマりし、吉井はヤクルト時代3年連続で二桁勝利を挙げてます。98年からメジャー挑戦をしています。
救援陣では全試合救援にも関わらず佐野重樹が10勝を挙げています。抑えは赤堀元之でしたが13Sの割には8敗しており怪我もありましたが前年までの安定した守護神とは打って変わって不調なシーズンを送りました。

山崎慎太郎
この年含め近鉄では3回の二桁勝利を達成。ただ5回の二桁敗戦も達成しており、
評価が分かれそうなピッチャーである。
98年にFAでダイエーに移籍。

失墜のレジェンド

開幕カードの日本ハム2連戦に連勝するも、勝ち負けを繰り返すと4月12日から5連敗、4月22日から6連敗。18日には主力のL.スチーブンスが14試合目で10HRと打ちまくっていましたがチーム自体は絶不調でした。以降7月まで5~6連敗を3回ほど記録します。その7月中旬に最下位転落。その後7月30日から8月6日までシーズン最長の7連敗。8月8日オリックス戦で連敗を止めますが、その夜のことでした。
遠征先を訪ねてきた球団社長が鈴木監督にこう告げます。
「これ以上、あなたの顔に泥を塗れない」
こうして退任会見もなしに鈴木は監督を途中退任。近鉄のレジェンドを満を持して監督に据えましたがそのラストはあっけないものでした。
後任はヘッドコーチ兼打撃コーチの水谷実雄が監督代行しますが、26日のオリックス戦では40歳になる佐藤義則に132球でノーヒットノーランを献上するなどいてまえ打線は見る影もありませんでした。
最終的には49勝78敗3分。73年以来の勝率3割台に落ち込みました。2位ロッテにはギリ勝ち越しますが優勝したオリックス、3位西武にはそれぞれ借金10、11を喫しました。

凄い余談ですがこの年のパ優勝したオリックスは「がんばろうKOBE」を胸に優勝したのですが、この年のセパ両リーグの最下位はそれぞれ阪神・近鉄と兵庫大阪の球団なんですよね…

水谷実雄
鈴木とは同い年で鈴木が解任された8月9日から監督代行。
打撃コーチとしては合う合わないがあったらしいが
中村は合ったみたいで打撃の師として慕っている。
6球団の打撃コーチを歴任している。

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