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栗の木テラスでつかまえて

長野には平成14年から17年の3年3か月住んだわ。
イラク戦戦争や北朝鮮拉致被害者帰国など、世の中の動きも少しずつ思い出せるくらい社会的なことにも目を向けられる余裕が育児にも出てきてたわね。
ところが、こどもが大きくなってくると今度はこどもに伴う社会問題も深刻になってくるわけよ。

3年半の間にこども達の通っていた小学校ではクラスの学級崩壊や不登校が起こってたわ。
たまたま転入した学校がそうだったのか何なのか、息子のクラスも娘のクラスも学級崩壊。
そんな中、我が家には役員免除の理由となる当該児童の下に未就学幼児の弟がいたにもかかわらず転入1年もしないうちにあたしはPTAの役員に選ばれちゃったの!

上記を理由にお断りしても「もう決まったことだから」とだれも助けてくれず、わからないことも多かったのに協力してくれる人も少なく、本当につらかったわ。
そもそも3月末に北海道からやってきてすぐ、確か4月の1日くらいに長野の教育委員会に小学校の転入手続きをしに行ったら「新学期は明日からですよ!なんで事前にご連絡くださらなかったんですか!」ってえらい怒られたくらい長野の学校事情を知らなかった人間なのよ。
日本の小学校なんて全国どこも一緒なんて思っちゃいけません。
あたしは主に大阪の市立小学校に45年ほど前に通ったんだけど、もう今は変わっているかもしれないけど、夏休みは40日間、運動会は秋の平日、冬休みと春休みは2週間というのは全国のスタンダードだと思ってたのね。
でも例えば北海道では夏休みは4週間くらいで冬休みも1月の末くらいまでの1か月間。
運動会は5月で(今は全国的に春に運動会やる学校も増えたわね)基本学芸会などほかの行事も雪が降る10月までに開催して地域の人がみんな見に来る、なんて感じでかなり違いがあったわけよ。(でも、北海道の人たちって自分たちが本土とは違う、ってことわかったうえで対応してくれるんで、あたしがわかんないこと言っても「ああ、そうなのね」って感じで鷹揚に構えてくれてたのよね。)長野は別に北海道ほど雪が降るわけではなかったけど春休みは10日間ほどで、夏休みも一か月ほどとかなりお休みが少ない感じだったわ。

そんなこんなでかなりこどもの学校生活と役員の仕事に疲弊しているところに、実父が脳梗塞で倒れちゃって、広島の病院までお見舞いに何度か通ってたの。
結局父は3か月意識不明のまま亡くなってしまい、あたしは2週間ほど広島に行ったきりになったのよ。
役員になった時から父のことや、不在になる可能性については副会長にも説明しており、訃報がきたときは今後についてよろしくお願いしますと連絡を入れたのに、葬式当日に電話がかかってきたのには少々辟易したわね。
しかも内容が「次の会議のお弁当の手配をどうするか」というもの。
役員全員があみだくじで無理やり選ばれて嫌々やっているようなメンバーだとこういうことになるのよ。
「父が死んだんです!」
大好きなパパが亡くなっちゃって悲しくてしょうがなかったのに、電話口で思わず叫んじゃった。
実は訃報が届く3日ほど前に役員会の飲み会があって、あたしそうとう飲まされて帰り道に田んぼに落ちちゃったの。
その瞬間はなんでもなかったんだけど、実は膝の靭帯を痛めたみたいで、葬儀で正座ができないくらい痛かったのよ。
長野に戻った後、整形外科で靭帯損傷を知らされた時、当時の小泉首相ではないけど(PTA、ぶっ壊す!)の精神でその後の役員業務を努める決意を固めたわよ。

そんな状況でこどもたちもあたしもかなり精神的に参っていたんだけど新しく家族を迎えることにしたのね。
長野県動物愛護センターの譲渡会に参加して雑種の雌犬に運命を感じて迎え入れたの。
譲渡会では一番元気で人懐っこそうな子を選んだつもりだったわ、その後人見知りの激しいクール・ビューティーだということが判明したけどね。
彼女は今でも元気で家族に寄り添ってくれています。

ともすればPTAで孤立しがちで、こどもたちも安心して学校生活が送れないような毎日の中であたしはだんだん煮詰まってきてたわね。
その頃冬季五輪が開催されて4年後であった長野には素晴らしい体育施設が市内にたくさんあってね、年間パスで全施設使い放題だったのにどこもがら空きだったの。
あたしはパスを手に入れると、暇さえあればプールや体育館に出かけて水泳や筋トレに励み、気が付けば北海道時代に美味しい食べ物を摂取しすぎてすっかり太った体を出産前の状態まで絞っちゃったのね。
ちなみにW杯日韓大会中に調子に乗って仲良しの美容師さんに金髪にしてもらったんだけど、それから長野にいる間はずっとブリーチしてベリーショートにしていました。
短髪でムキムキ(笑)だったせいでよく男に間違われたわ。
こどもの学校では「○○くんのお父さん」とか「おじちゃん」って呼ばれたし、そうそう、温泉の脱衣所で裸だったのに後ろから来たおばさんに「たいへんだ!男の人がいる!」って騒がれた伝説の持ち主があたしです。

W杯が終わり、絵が入賞し、サッカーを描いていこうと決心が固まったあたしは働くことにした。
新しくフリーペーパーが発行されることを知ったあたしは自分から売り込んでライターとして採用されました。
ここでは主に市内のスポーツクラブや教室、選手を紹介しながら挿絵も描きました。
ようやく小さなころからの夢の一つ、絵を描いてお金をいただく仕事をすることができました。

父の葬儀から戻って、地元のとある社会人サッカーチームの練習を見学に行ったの。
前年の北信越リーグを優勝したそのチームは地域決勝大会にも出場したのね。
その大会の模様を伝える記事を読んでJFLを頂点とした日本におけるアマチュアサッカーの仕組みを、あたしは恥ずかしながら初めて知ったのよ。
残念ながら決勝大会を勝ち抜けることはできず、その年も彼らは北信越リーグを戦うことになったのだけど、あたしが見学に行く前に連絡を取った事務局の人は彼らが今後もJFL、さらにその先のJリーグ昇格を目指していくのだと熱く語ってくれたわ。
とはいえ、地域リーグなんて草サッカーみたいなもんだろうと思っていたあたしは完全に間違っていました。
彼らは高いレベルの身体能力と志を持った、美しい駿馬だったの!
あたしは彼らに夢中になったわ。
もう、パラグアイも、日本代表も、ガンバ大阪も、とりあえずいらないや!って思えるほどに。

「あたしこのチームのサポーターになります!」
「ありがとうございます!今度は試合を観に来てください。人数は少ないですが応援をしてくださっている人たちがいるんです。紹介しますよ。」
「ありがとうございます。でも、あたしは事務局をお手伝いしようかと思ったんですよ。」
「それもありがとうございます。ポスター張りにチラシ配り、ホームページや試合運営、いくらでもあります。」
「楽しみです!あたし、週刊○○ってところでコラム書いているんで、そこでもこのチーム扱わせてください。」
「ありがとうございます!じゃあ. . . 」
アイデアがとめどなくあふれてきた。
それを受け止め、喜んでくれる、一緒にやってくれる人がいる嬉しさ。
ようやく長野での生活が楽しくなってきたわね。

2003年、2004年、そして2005年の3シーズン、そのチームのサポーターとしてゴール裏で声を出し、アウェイに遠征し、広報活動を手伝い、試合会場の設営・撤収をやったわ。
そんなつもりはなかったのにゴール裏にデビューしてしまったのはそれが地域リーグだったからかもしれないわね。
紹介された応援団はたったの3人。
その後増えたり減ったりしながらあたしがそのチームとお別れしたときでも10人くらいしかいなかったの。
(こんなに少ないのに、みんなで声を出してチームをサポートしてるんや!)
リーダーが太鼓を抱えてたった一人で声をはっていた時なんて(なんて勇気だろう!)って感動して涙出ちゃったもの。
黙って後ろに立っていては申し訳ないと思ったわ。
チームと一緒に声を出して闘う - 負けたら死にたくなるほど悲しいけれど、勝ったらもう死んでもいいやと思えるほどうれしい。
広いスタジアムで大好きなチームへの愛を90分間も叫ぶとそりゃあスッキリするわよ、奥さん!
しかも「広報活動」と称してあたしは選手に「取材」も敢行しました。
もちろんJリーグやなんかとは違うので、別に普通に話しかけられるし誰も止めないんだけど、あたしは自ら写真を撮ったりお話を聞いた選手を描く、という一連の作業に没頭したわ。
ここ何年か自分がたどってきた道、勉強や仕事がすべてここにつながっていたのかと思える充実感でした。

長野では前述のフリーペーパー以外でも個展を開くなどの活動をして絵描きとしては充実していたと思う。
身近に1チーム丸ごとのサッカー選手という素晴らしいモデルも得て、この3年間だけで5~6冊スケッチブックを描きつぶしたわね。
ただ不登校に陥ってしまったこどもの心は沈んでいて、相方は関西転勤の話が出た時に迷わず手を上げたそうよ。
あたしも愛するチームと離れるのは寂しかったけど、これ以上こどもをあの学校に通わせられないと思っていたの。
転勤を伝えた時、チームのみんなは残念がってこんな通りすがりのおばちゃんサポーターのために送別会まで開いてくれたわ。
でも、ちょっと、待って、チームはJリーグを目指しているのよ!
「昇格して関西に会いに来てよ!」
あたしは仲間にお願いしました。

70歳で亡くなった実父はいろいろあったけど大好きだったの。
気に入らないとすぐ怒るし、外面はいいのに内弁慶でわがままなところはあったけど、楽しくてがんばりやであたしのことをいつも「可愛い」と言ってくれた。
なによりパパはいつもあたしの夢を応援してくれてた。
絵の道具なら経済的に苦しいときもすぐ買ってくれたし、アメリカの学校でであたしが賞を取るたびに大喜びしてくれたし、帰国後あたしが描けなくなると「いつもすぐに絵を描ける環境を整えておきなさい。たとえかけなくても準備と環境が大事。」と言ってくれた。
父が倒れる直前、帰省した時に遅くまで2人でお話したの。
日本代表の絵でコンテストに入賞したこと、これからはサッカーを描いていこうと思ったこと、好きなチームが見つかったこと、パパは笑顔で聞いてくれた。
あれが最後になるとは思わなかったけど、パパに直接報告できてよかったと思ってるわ。

あたしたち5人と犬1匹は2日間かけて車で関西の転勤先に引っ越すことになりました。
おにいちゃん14歳、娘11歳、末っ子7歳、犬2歳の夏でした。

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