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子どもは作らないと思うって話

当たり前というものを信じていた子どもの頃の私は、25歳くらいで結婚して、30歳くらいまでに子どもを二人産んで、おいしいご飯を作って家族の帰りを待つお母さんになる未来を思い描いていた。そして大人になった私は、自分のために稼ぎ、自分のためにご飯を作り、当たり前を疑うことができるようになった。

お婆ちゃんになった私は、子を持たないという過去の自分がした選択を、後悔していないだろうか。もしかしたら、どうしてその選択をしたのか忘れて、過去の私に文句を言いたくなっているかもしれない。お婆ちゃんになった私へ、これを読んで納得するとしてください。

他人によってはデリケートに感じるテーマだと思います。お婆ちゃんになった私以外に読んでくださる方がいらっしゃったら、ご自身の心を守りながらこの先へ進んで頂ければと思います。



人生というイベント、おすすめしません


正直、これに尽きる。ある日どこかの魂から、「ちょっと相談があるんだけどさ」と連絡が来て、「じゃあ新宿に行きたいカフェあるから、週末そこで会おうよ」と返し、当日オムライスをつつきながら「そろそろ人間としてこの世界に生まれて来ようかなって思ってるんだけど、人生ってどう?いい感じ?」と聞かれたら、「うーん、いい感じでやれる確率はある程度あるんやけど、そうじゃ無い場合もめちゃくちゃ多いんだよね。そっち引くと地獄でさ、生まれない方がマシ。正直簡単にはオススメできないわ。」と私は答える。

おそらく実際には、魂は新宿に来られないし、オムライスは食べないし、生まれてくるかどうかは選べないのだろう。少なくとも私は選んだ覚えがない。当人に選ぶ権利がない、他人のエゴでしかない選択の結果、幸せでいられるかどうかは全くの不確実な人間が新たにこの世界に生み出され、途中でその生を投げ出すことは許されない、それが私にはどうしても理不尽なことに思えてしまう。

それは、ここまで生きてくる中で『どうして生まれてきちゃったんだろう』と思いながら泣いた夜が、『もういっそ殺してくれ』と息も絶え絶えになった日々が、私に数えきれずあったからだろう。もちろん、楽しいことや嬉しいことだってあったし、毎日食べるものに困らず、安全な場所で安心して暮らせている。でも、そんなことは関係ない。『楽しいや嬉しいなんていらない、これ以上苦しみたくないだけなんだ』と声にならず叫び続けた私は、紛れもなく今の私と地続きの私だ。



子よ、どこかで幸せになってくれ

ただでさえおすすめできないイベントなのに、さらに私のDNAを持っているときたら、そりゃあもうハードモードな人生が待ち構えているに違いない、というのが28年生きてきた持ち主の見解だ。私はこれまで「生きづらそうだね」と言われた回数が度を超えていて、ちょっとお客様そちらの回数券で言える回数はもうとっくに越されていますのでもう1セットお買い求めくださらないと…という感じなのだ。

加えて私は、日本という社会をあんまり気に入っていない。個性よりも普通が大切とされ、出る杭は打たれ異端者ははじき出され、自分に還元されない税金を払わされ、ジェンダー指数が低く、幸福度の低い国 (と私は感じている)。もちろん好きなところもたくさんある、ご飯は美味しいし清潔だし街並みは綺麗だし、私はおそらくこれからも日本に住み続ける。ただ、"生きづら遺伝子"こと私のDNAと日本の相性はすこぶる悪い。『私だからこのキャラとワールドの組み合わせをなんとか操縦できてますが、これ他の人間だったらとっくにくたばってますからね?!』と半ば切れかかっている。

つまり、私が日本で産む人間というハードディスクは、「これから生まれるぞ〜!どの個体に入ってこうかなぁ〜!」と希望を抱いている魂にとっちゃ、おそらくハズレくじなのだ。別のDNAで、別の場所で生まれてもらう方が、良い人生を送れる可能性が高い。私は自分の子どもを愛している。愛しているので、どこかで幸せにやっていてくれ、と思うのだ。魂のシステムが私の想像通りなのかどうかは知らんけどな。


ま、愛する覚悟も足りてないんだけどさ


綺麗なことを言ってきたが (いや別に綺麗ではないか)、自分の子どもがどんな人間であったとしても愛し続ける、という覚悟とスキルが、私には十分じゃないとも思っている。

私は、親からの愛を感じずに育った。栄養に気遣ったおいしいご飯を作ってくれたことや、寝る前に絵本を読んでくれたことや、体調を崩しがちだった私をしょっちゅう病院に連れて行ってくれたことは、今思えば紛れもなく愛だったのだが、当時の私は、誕生日にプレゼントを買ってもらえないことや、妹の方が可愛がられていること、私の酷い人見知りをどうにかしようと様々なコミュニティに無理やり放り投げられたことなんかを、「私は愛されていないんだ」と解釈してしまっていた。

他人から受け取ってきた愛が十分ではないこと、それ自体に対しては別にもう何の不満もないのだけれど、それによって他人に惜しみない愛情を自然に注げるスキルが自分から欠落してしまっているであろうことが、子を持つという選択をとる上では十分すぎる不安要素である。

そして、温かい家庭というものも諸事情により知らない。こういう、言葉になおりにくいような、経験で吸収しておくべきものごとを知らないというのは、案外大きなハンデだ。見よう見まねで、他人の言葉を頼りに作り上げることができたとしても、それは自然ではないので、作る側にも受け取る側にも歪みが生じてしまうだろう。

その歪みは、私か、子か、もしくは夫に、そして人間以外の様々なものにも及んで、きっとどれかが耐えきれなくなる。自分が全ての歪みを請け負えれば事は解決するのだが、生活や記憶や感情や、様々なものを交換しながら生活をやっていく組織である家族において、何かをひとりで背負うことは不可能だ。そしてやっぱり、こういった歪みは多感な子どもに強く影響を与えてしまう、幼い頃の私がそうだったように。

ごちゃごちゃ言ったが、要は自信がないのだ。自分を信じる覚悟が足りないのだ。誰だって最初は自信なんてないのだろうけど、その誰かは結局自分を信じることに覚悟を決めて子を作る。私はその "結局"に至れないほど、自分を信じない方が良いと思える経験が多かったというだけのことだ。


***


今付き合っている彼は、私と同じく子をもたない考えの人間だ。理由を尋ねると「人類が嫌いだから」と答える。

もしも夫となる人が子を望むのなら (そして子を育てる力量がある人間であったならば)、私は子どもを産む人生を送ることも辞さないつもりだった。それにもしかしたら、この先どこかで本能が発動して、どうしても子を欲しくなったりするのかもしれないと思っていた。

ところが彼と出会ったことで、子のいない人生がくっきりと現実味を帯びてきて、私は心底ほっとしたと共に、人生がぽっかりしたとも思った。子を産み育てるという体験には非常に興味があるし、子を産み育てることで自分の人生の豊かさと成長がうんと増すであろうことにも気付いている。子を産まない選択をした時に生じる人生のぽっかりしたところを、不安に思う面もやはりある。

これから先の私が、本当に子をもたない人生を選択し続けるのかは分からない。28歳の私は少なくとも、私の生きる意味や私の人生の豊かさを子に背負わせるのは違うと、自分のエゴよりも子が幸せに生きられることを大切にしたいと、子を愛するが故に思っている。


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