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入らなくなったジーンズを捨てたら、痩せなきゃの呪いから解放された


私は長らく、自分の容姿が好きになれなかった。


小学生の頃、仲の良かった友達とじゃれ合っているときに、突如「ブスー!!」と言い放たれたことが、大人になっても心に刺さりっぱなしで抜けてくれない。

もちろんその友達に悪気がなかったのは分かっている。覚えたての言葉を使いたくなっちゃっただけだろう。

ただそれは、容姿の優劣なんて気にしたこともなかった無垢な少女に、「どうやら自分はかわいくないらしい」という新しい概念を植え付けるのに十分なできごとだった。

そして、以降の私は、容姿が整っていない者としてつつましく生きねば、という前提のもと学校生活を送ることになる。


気になる男子ができても、私に好かれるなんて迷惑だろうなと、それ以上好きにならないよう我慢する。

メイクで悪あがきをするのはかえって痛いような気がするので、ナチュラルな身だしなみを心がける。

クラスでブスが騒いでいたら目障りだろうから、目立たないようにおとなしくしている。

大学では男だらけの環境に合わせ、自らブサイクキャラになることで笑ってもらう。

思春期特有の悩みだと言われればそうなのかもしれない。


けれど、心につけた傷はあまりにも多く、脳みそにこびりついた思考はなかなか剥がれなくて、アラサーと呼ばれる年齢になるまで「かわいいかどうか」は私の中で大きな要素だった。

人にぞんざいに扱われると、「かわいくないせいだ」と思った。

仲良くなりたい人がいても「容姿が釣り合わない」と躊躇した。

なかなか恋人ができない生活を、「かわいくないからしょうがない」と諦めた。


かわいいの呪いは、私の生活の大前提の場所にとどまり続けていて、それはそれは厄介だったし、染みつきすぎてしまって自覚しないところで私の行動に今も影響を及ぼしているかもしれない。


それでも、最近はいくつかの出来事によって呪いが薄まってきた。



ルッキズムという概念との出会いは、私を随分と救ってくれている。

容姿によって受けられる権利に差があるのは仕方がないことだと思っていたが、その現実がおかしいんだと声をあげて良いらしい。

他人の容姿を勝手にどうこうと批評するのは、失礼なことらしい。

容姿によって嫌な思いをしたら、怒って良いらしい。

そんな理想が日本で現実になるのはよほど先のことだろうが、知ることでかさぶたになっていける傷があった。



私のことをかわいいと言ってくれるパートナーに出会えたのも大きい。

ルッキズムに作られた傷がルッキズムで癒されるのはやるせなかったけど、それでしか救えなかったことも紛れもない事実だ。

容姿も含めた自分のまるごとを受け入れてくれる存在がこの世にいることではじめて、自分の容姿はどうでもいいかと思えるようになった。


それから、入らなくなったジーンズを捨てた。

痩せたら着こなせるからという名目でタンスに肥やされている洋服がたくさんあったし、これから痩せるから大丈夫という謎の考えでワンサイズ小さい服を買うこともよくあった。

が、心地よさを大切にしようと思って、それらを手放したら、自分の体重の数字を受け入れられた感覚がした。


最近はそうやって少しずつ少しずつ、蓄積されたルッキズムを手放して生きている。

それでもまだ、電車の中で他人の顔を見て、私の方がまだかわいいな、と思ってしまう。


ある本で、北欧の国では、容姿を気にしない教育が進んでいると知った。

日本育ちの母が「今日会った○○くんのお母さんは美人だったね」と北欧育ちの我が子に言ったら「美人だからなんなの?」と答えたらしい。

それはとても、生きるのに適した文化のように思えた。


私の最近の変化は、その北欧の子からしたら全然まだまだだねってところだろう。

でも、私にこびりついた私を苦しめるものたちを剥がしていく地道な作業を、私は死ぬまで諦めたくないと思う。

あらがっていこうと思う。

許さないでいこうと思う。


銭湯の鏡に写ったぽむぽむな自分のフォルムに、まあいっかと感じながら、そんなことを考えた。


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