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魚の心

 沙也ちゃんの「死にたい」が、正しく「死にたい」という意味で使われたのは、あれがはじめてだったように思う。
 というのも、彼女は昔から日常生活において「死にたい」という言葉を多用するタイプの子だった。
 朝いちばんから彼女の苦手な数学の授業が入っていれば「死にたい」、推しの俳優に熱愛報道が出れば「死にたい」、化粧や髪のセットが上手くいかなければ「死にたい」。ニキビができれば、靴ひもが解ければ、教科書を忘れれば、雨が降れば、逆に晴れ過ぎれば。

「翼。あたし、死にたい」

 だからその日の「死にたい」も、いつものやつだろうと思った。何があったか知らないけれど、またきっと口癖のように言っているだけなのだろうと、そう思った。
 でも、長いまつ毛で縁どられた大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろとあふれ出したのを見て、私ははじめてぎょっとした。「ちょっと、何。どうしたの?」と慌てて顔を覗き込むと、沙也ちゃんは小さな顔を両手で覆って、こう言った。
「疲れた」
 お互いがうら若き十五歳の時から、もうかれこれ十年彼女の友人としてやってきたが、こんな沙也ちゃんの姿を見るのははじめてだった。
 沙也ちゃんはそれから、呆気に取られて固まる私に対して、五歳の子どもがお菓子をねだるような口調で、
「死にたいよう」
 と、言った。
 いつだって、世の中に不満も不安もありませんって顔でにこにこ笑っていた沙也ちゃん。ころころよく変わる表情と人懐っこい性格もあって、学生時代は男女問わずの人気者だった。
 みんな、沙也ちゃんのことが好きだった。
 沙也ちゃんは良くも悪くも、人によって態度を変えたりは決してしない。全員に対して同じ温度感で、同じ熱量で話をする。例え人を十人殺した殺人鬼と、人を百人救ったお医者さんと同時に話しをすることになったとしても(そんな状況になることはまずないだろうけれど)、彼女は二人に対して平等に笑いかけるだろう。そして彼女のそういう間口の広さというか、揺るぎのないかんじは、情報や娯楽に溢れて混沌とした今を生きる人たちを安心させるのだろうと、私は思う。
「死にたいって、本気?」
 ややあって、ようやくわたしは彼女にそう投げかけた。訊かなくともわかったけれど、訊かずにはいられなかった。沙也ちゃんがたった今発した「死にたい」は、彼女が普段から多用する軽率な「やーん、死にたい」とは明らかに違っていた。
「うん」
「そう……」
「……」
「じゃ、死のう。死んじゃおう、一緒に」
 沙也ちゃんと違って私は普段、「死」という言葉を使わない。はっきりと意識して使わないようにしている。死は暗くて怖いものだと知っているから、口に出すのも嫌なのだ。だから、久しぶりに「死」という言葉を口にして、心臓がドクンと鳴った。それは嫌な鳴り方だった。
 私の言葉に、沙也ちゃんは顔を上げた。くるみのような瞳と視線がかち合う。空気が重い。窒息しそうだ。
「でも、翼、いいの?」
「うん」
 間髪入れすに、私は頷いた。
「二人一緒なら、怖くないでしょ」
 

 
 思えば、「だましだまし」って言葉がぴったりの人生だったように思う。
 
 私の両親は、何故一度は結ばれたのか本気でわからないくらい我の強く、そして揃いも揃ってその我を譲れないような人たちだった。
 私が物心ついた時には二人の仲は既に修復不可能というくらいに冷え切っていて、けれど厄介なこと揃って根は真面目な性格だったからか(あるいは世間体を気にするタイプの人たちだったからか)、「せめて、この子が高校を卒業するまでは今のままでいよう」なんて言って、離婚届けに判を押すことは決してなかった。
 二人とも、私に対してはきちんと優しかった。お互いのことはまるで無関心だというのに、間にはさまる私にだけは、奇妙に優しかった。
 でも、両親にバラバラに優しくされるというのは、子どもからしたらたまったものではない。
 そして「この子が高校を卒業するまでは一緒にいる」なんて言われながら過ごす子ども時代は、まるで自分が時限式の爆弾にでもなったかのような気持ちにさせられる、なんとも胸のざわざわするものだった。
 
 そしてそんな呪いのような生活の中で唯一、沙也ちゃんの傍にいるときだけ、私は安らぐことができた。
 
 ご両親に、大切に大切に、愛されて育ってきた沙也ちゃん。毎日のお弁当は美人のお母さん(沙也ちゃんは“ママ”と呼んでいた。それが私にはまた眩しかった)が腕に寄りをかけて作った、可愛らしいもので、その甘すぎる卵焼きを何度「一口ちょうだい」と貰ったことだろう。笑っちゃうくらい筋肉がムキムキで、車を三台も持ってるお父さん(沙也ちゃんはやっぱり“パパ”と呼んでいた)は、たびたび私たちをドライブへ連れて行ってくれた。
 私は沙也ちゃんと沙也ちゃんの家族のことが好きだった。いいなあ、と思っていた。
 それは、羨ましい、という感情よりは、明け方の海で波打ち際が朝日に照らされて光るのを見た時のような、何かそんな到底自分には持ちえないものに対しての憧れのような感情だった。
 沙也ちゃんと沙也ちゃんのご両親のおかげで、私は世界を恨まずに済んだと言っても過言ではない。
 こんなに美しい人たちが、美しい心持のまま、美しく生きている世界なら、そんなに悪くないんじゃないだろうかと、そう思えたのだ。
 そしてそのように思える拠り所が一つでもあるということは、当時の私にはすごく、ものすごくありがたいことだったのだ。
 
「翼―っ!」
 ブンブンと、大げさなくらいに手を振って、沙也ちゃんが呼んでいる。横浜駅のJR改札を出た、広いコンコースで。私は軽く手を振り返して、彼女に近寄る。
「もう、なんでライン見てくんないの!? 超探したじゃん!」
「え、うそ、ごめん。スマホ忘れちゃって」
「そんなことある!? えっ、取りに帰れば!? ないとだいぶ困るっしょ!?」
「あはは、いいよ、大丈夫」
「もーっ、ほんとぼうっとしてるんだから!」
 呆れた様に言いながらも、沙也ちゃんは楽しそうに笑った。
「じゃ、いこ」
 手を握られる。その指先は、燃えるように熱い。興奮しているのだ。これからはじまる、最初で最後の非日常な出来事に。
 横浜駅はどうしてだかいつ来ても、どこか灰色に見える。何十年経っても終わらない改修工事のせいで、常にどこかしら封鎖されているからだろうか。東海道線のホームに上がって、青い空も輝く太陽も見えているというのにやはり、見える景色はどこか鈍色に感じる。
「えーと、下田までは三時間半くらいだって。やっば、向こうに着く頃には、夕方になってるじゃん!」
「踊り子に乗れば二時間くらいで着くよ。今からでも特急券買う?」
「えー、うーん……うん。買っちゃおっか!」
 からっと明るく笑って、沙也ちゃんは言った。そうこうしているうちに、『間もなく、六番線に、特急踊り子号が到着いたします……』とアナウンスが流れだしたため、私たちは大急ぎで券売機を探し、特急券を購入した。カード類を一切持ってきていなかったので現金で支払おうと思ったのだが、券売機にはでかでかとした赤文字で「クレジットカード専用」と書かれていたので、私はすっかり困ってしまった。
「沙也ちゃん、ごめん。私の分も払ってもらっていい? 現金しかなくて」
「えーっ!? もうっ、スマホといいカードといい、翼ってばほんとに現代人!?」
 しょうがないなあ、と言いながら沙也ちゃんは財布からピンクのカードを取り出し、券売機に挿入する。二十歳になりたての頃、特典やら用途やらポイントやらの事情を一切考えず、「なんか見た目がかわいいから」という沙也ちゃんらしすぎる理由で契約をした、JCBのクレジットカード。そうこうしている内に踊り子号がホームに到着し、列を成していた人が数人、乗り込んでゆく。私たちは滑り込みセーフで乗車をすることに成功し、乗ってすぐに動き出した車内でぐらりとふらつきながら、なんだか二人、可笑しくなって、くっくとしのび笑いを漏らすのだった。
「うおーっ、すごい、早い!」
 席に座ってすぐ、窓の外を見ながら、沙也ちゃんが騒ぐ。見慣れた横浜の街並みを置いて、電車はぐんぐん進んでいく。ふう、と一息をついて荷物を置き、椅子に深くもたれていると、ややあってがさがさと袋を漁る音が聞こえた。
「翼、ビールでいい?」
「うわ、呆れた! 駅で買ってきたの?」
「だってえ! 車内販売って超高いじゃん。てか、いいんだよべつに、飲まなくても」
「うそうそ、ごめん。超飲みたい」
「ふっふっふ。そうでしょう、そうでしょう、そうこなくっちゃ!」
 よく冷えたビールを手渡される。こん、と缶どうしをぶつけて、ささやかにカンパイをする。プシュッと音をたててプルタブを持ち上げると泡が溢れてきて、私はそれを慌ててごくごくと飲んだ。
「あ~、自由の味がする」
 缶ビールを天界の清水みたい飲みながら、沙也ちゃんは言った。
 それから私たちはしばらくの間、思い思いに好きな時間を過ごした。私は持参した本を読み、沙也ちゃんはイヤホンをして好きな曲を聞きながら、窓の外の景色をじっと眺める。揺れの少ない優れた造りの特急列車は、静かに、とても静かに私たちを目的地まで運ぶ。
 お酒を飲んだせいかどうにも読書に集中できず、もはや文字を追う作業になりかけていた矢先、そこに書かれていた言葉にふっと息を呑む。
 
『人はみんな、痛い思いや怖い思いをしたくない。幸せを感じたい。そういうものだから』
『だから誰かがそういうふうになりそうなことには、絶対に手を貸してはいけない。』
 
 そうかもしれない、と私は思った。
 でも、でもそんなの、とも、私は思った。
 ぱたんと本を閉じて、気分を払拭するように辺りを見回す。休日には家族連れの旅行客で溢れているであろう車内は今、平日の昼間ということもあり、まばらにしか人がいない。ノートパソコンを広げた、くたびれた感じのサラリーマン。気ままそうな風貌の若者。旅行というより里帰りでもするような、大荷物を抱えた親子連れ。
 そして、命を捨てに行く私たち。
「翼」
 声をかけられて、ハッとする。
「な、」
 に、と言葉を発し終わるより前に、私はそのあまりの光景に圧倒されてしまい、黙り込んだ。
 暴力的なまでの光の束が窓の外から差し込み、沙也ちゃんの細いシルエットを黒々と塗っている。眩しい。目がちかちかする。眼球がじくじくと痛い。
「海。海だよ!」
 数秒するとようやく慣れてきて、私は沙也ちゃんに促されるまま、目線をそちらへ向けた。
 窓の外には確かに、海が広がっていた。けれど、私の記憶の中にあるどの海よりも、光り輝いて見える。まるで宝石のよう――なんて例えをしては陳腐に思われるかもしれないが、しかし、けれども、そう例えずにはいられないくらい、それはとても美しい光景だった。
 私はぽかんと口を開けて、しばらく黙ってその景色を見ていた。なだらかな海面に浮かぶ小舟を。白兎が跳ねるような波の切れ目を。ほとんど見て取れないほど曖昧になった、空との境界を。
   どれくらいそうしていただろう? 列車は不意にトンネルに突入し、その拍子に、自分の間抜け面が窓に反射して見えた。それを見て沙也ちゃんが「あはは、翼、変な顔!」と笑い、私はなんだか気恥ずかしくなって「う、うるさいな」と言い、本を片手に座り直した。
「何読んでるの? ……『海のふた』?」
「うん」
「海の話?」
「んー……うん。海の見える町に暮らす女の子と、その女の子の家にやってくる、傷ついた女の子の話」
「そっか」
 沙也ちゃんはもうそれ以上、何も聞いてこなかった。また黙って一人、イヤホンをつけて、窓の外の景色に目をやりだす。思えば私たちはいつもそうだった。教室にいる時も、どこかの公園で二人、意味もなくベンチに腰かけている時も、マックでMサイズのポテトをちまちまと分け合っている時も。二人でいるのに一人みたいだったし、でも不思議とそれが心地よかった。
 
 下田駅には、あっという間に到着した。改札を抜けると、数軒の土産屋にのぼりがたっているのが目に入る。ひょいと覗くと、流石海に面した町、魚や貝や海藻などの土産物が多く目について、そのせいかほんのりと生臭い。でも、それはいやな生臭さじゃなくて、活気に満ちた良い香りだった。
「寝姿山ロープウェイだって。登ってみる?」
「こら、私たちの目標はそこじゃないでしょ」
「あっ、そうだった」
 あはは、とまた沙也ちゃんが笑う。
 港町に吹く風は、べたべたと潮っぽい。どこを歩いても磯の香りがツンと鼻をくすぐる。こんな強烈なほど大きな自然の匂いに抱かれて生活をしている人々は、いつか海のない町で暮らすことになった時、その喪失感に耐えられるのだろうか。
 いや、きっと耐えられるのだろう。人は得てして、そういうふうにできている。何かが足りなくなったって、別のなにかで補う能力がある。あるいは足りなくなった何かを恋しく思う気持ちすら、時が経てばすっかり忘れて--思い出という形に昇華することができる。
 私には、人間という生き物のそういうことが、時折とても、寂しく思える。
「あっ、翼、タクシー乗り場あるよ」
 私の腕を引いて、沙也ちゃんが言う。電車の中で、缶ビールを三本も飲んでいたいうのに、元気なものだ。私は沙也ちゃんに導かれるまま、一台のタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
 タクシーの運転手さんは優しそうなおじさんで、そういうことに、私はホッとした。何度か一人でタクシーを使った際、無愛想で口調の荒い人に当たったことがあり、怖い思いをしたことがある。これが電車やバスならいいのだが、タクシーという密室だと逃げ場もないうえ命を丸ごと預けているといっても過言ではないため、私はいつも、妙に緊張してしまう。
 胸を撫で下ろしている私の横で、慣れた調子で沙也ちゃんはにこにこと言った。
「特に目的地は決まってなくて~。とりあえず、海岸沿いを走ってもらってもいいですか?」
「ええっ。そりゃいいけど……こんなこと言うのもあれだけど、それならここら辺を巡回してる地域バスに乗った方が断然安いよ」
「でも、バスは降りたいと思ったところで降ろしてもらえないじゃないですか~」
「そりゃそうだけど……まあいいや、お客さんの都合に口出すだけ野暮ですもんね。すみません、どうぞお乗りください」
 運転手さんは最終的にはそう言って、私たちを快く乗せてくれた。
 下田駅から海岸沿いに出るには、少しの間民家の間を走る必要があった。馴染みのない名前のスーパーやドラッグストアをいくつか見送り、学習塾の鞄を背負った小学生たちの笑い声を追い抜いたところで、運転手さんは不意に口を開いた。
「お友達どうしで、旅行ですか?」
「はい、まあ、そんなところです」
 沙也ちゃんが答えた。
「いいですねえ。このあたりはメシはうまいし、海はでかい!   楽しんでいってくださいね」
 ありがとうございます、と沙也ちゃんがお礼を言った。ありがとうございます、と私も小さく言った。運転手さんはもうそれ以上、私たちに何も言ってこなかった。
 海岸沿いをしばらく走って、だんだんと民家が減っていき、切り立った崖や木立やむき出しのテトラポットが転がる場所についたところで、私は「あ」と声をあげた。それを聞いた沙也ちゃんが、すかさず「あ、じゃあ、ここで降ります」と声を上げる。
「え、ここですか!?」
「はい」
「ここ、なんにもないですよ。最寄りのバス停からも随分遠いですし……」
「大丈夫です。どうもありがとうございました」
 にこやかにそう言う沙也ちゃんの横で、私は財布を取り出し、メーターに表示されていた金額に少し上乗せして運転手さんに渡した。「お釣りは結構です」と言うと、運転手さんはやはり不安そうにしながらも、「ど、どうも、お気をつけて」と私たちを見送ってくれた。
 タクシーを降りると、ごうっ、と強い風が吹いて、沙也ちゃんの長い髪を宙へと攫った。
「海だーっ!」
 あはは、と笑い声。
 車を降りてまず見えたのは、海に面する小高い崖だった。もちろん、海に近い場所には柵のようなものが設けられているが、ひょいと簡単に超えられる程度のものだ。
 沙也ちゃんはそこに、小走りで向かっていく。私もその後を追う。靴を脱いで、裸の足で地面を一歩一歩と踏みしめていると、なんだか懐かしいような切ないような不思議な気持ちになって、思わずぎゅっと、胸のあたりを掴んだ。
「夕陽! みて、翼!」
    それは幻のような光景だった。
 地平線の向こうに、太陽がとろとろと溶けるように沈んでいく。全てを飲み込むような光が海に反射して、あたりを激しく染めてゆく。
 私たちは神に祝福されている、と、私はその時、本気で、心の底からそう思った。祈りに似た感情だった。神が私たちを許している。認めている。歓迎して、両手を広げて出迎えている。だから何も怖くない。何も後ろめたいことはない。
 私は、柵を乗り越えて崖のすれすれに立ち、全身全霊で夕陽を抱くようにする沙也ちゃんの細い背中に、そっと手を伸ばした。
 やっと、終わらせられる。
 ――しかし、その時、
「……ああああああっ! 上司のバカやろーっ!」
 と。沙也ちゃんは、海に向かって、お腹の底から叫んだ。
 驚いた。
 固まる私をよそに、沙也ちゃんはそれから数秒して「……ふふ、くくく、あはははは!」と大きな声で笑いだした。私は思わず、ひゅ、と息を呑む。頭が、急速に冷えてゆく。
「あーっ! なーんか、大きい声出したらすっきりした! あ、うそ。やっぱりもっかい良い?」
 すう、と息を吸い込んで、沙也ちゃんはまた、叫び出す。
「上田課長のバカ野郎―っ! そんなんだから部下に嫌われまくんだよ、バカ、アホ、おたんこなすーっ! あと、それからついでに、悠人くんのバカーっ! なーにが、お前は頭が固すぎる、だーっ! 私はお前のママじゃねえんだぞ、バカーっ! あと、ついでのついでに、パパのバカーっ! 私はもう子どもじゃないんだから、帰りがちょっと遅くなるのくらい、許してよっ、バカーっ!」
 ぜえぜえと、肩で息をする沙也ちゃん。
 私は、伸ばした手をどうしたらいいのかわからなくなって、そのままそっと下げ、ぎゅっと拳を握った。頭が痛い。喉がカラカラだ。胸が痛くて、張り裂けそう。今すぐここから逃げ出して、どこかへ消えてしまいたい。
 でも、どこへ?
「……翼、ありがとね。それからさ、今ので、」
 沙也ちゃんは言う。すっきりしたような笑顔で。
 いやだ、いやだ、と私は思う。その先を聞きたくない。
「今ので、昨日までの西野沙也は死にました。はーあっ。あはは!」
 しかし、沙也ちゃんは呆気なくその先を口にした。
 夜と昼の境目にしか見れない、幻のような模様をした空が、眼前に広がっている。冷たい潮風が容赦なく私の髪を揺らす。
「翼も、何か思うことがあったら、叫べば? すかっとするよ」
 うっとりと海を見つめるその横顔を、私はじっと見る。
 今からでも、遅くはない。この背中を思い切り押して、その後に自分も続けばいいだけ。簡単だ。
 でも。
「……沙也ちゃんの、」
 私は言った。
「……沙也ちゃんの、バカーっ! 心配かけやがって!」
「ごめーんっ! なんでも奢るから、許して!」
「もう、振り回される私の身にもなってよ! 口を開けば口癖みたいに死にたい死にたいって!」
「ほんとごめんってえっ」
 謝りながら、沙也ちゃんは嬉しそうにしている。本当に嬉しいのだろう。そういうことが、苦しいくらいによく伝わってくる。
 私は、叫び出したい気持ちに必死で蓋をして、笑顔を作った。そうじゃないと、沙也ちゃんを今ここで、本気で殺してしまう気がした。そんなことはしたくはなかった。いや、本当はしたいのだけれど、でも、そうじゃなくて、
「翼がいてくれて、よかったあ」
 ――やっぱりこの、どこまでも無垢で美しい笑顔を見ると、私は何も言えなくなってしまうのだ。
 
 その晩、私たちは近くの安宿に宿泊した。古いホテルだが、窓を開けると海が見えて、沙也ちゃんは大はしゃぎで何枚も写真を撮り、それを現在絶賛喧嘩中だという彼に送りつけていた。その様子を呆れて見つめていると、沙也ちゃんは不意に、
「翼も撮ればいいのに……ってそっか、スマホ忘れたんだっけ」
 と言った。
「そうそう。だからまあ、おかまいなく」
「ま、その分あたしがたくさん撮って送ってあげるからね。後でアルバムつくっちゃろう。題して、女二人傷心旅行の巻」
「はいはい、ありがと」
 その後も沙也ちゃんはお酒を飲んではきゃいきゃい騒いで大変だった。この旅行がきっかけで何かと吹っ切れたことにより、テンションがやけに高いようだ。
 そうかと思えば職場や彼氏や家族の愚痴を言って「あたしには翼だけだよ!」と泣き、はたまた今度は電池が切れた様にころりと眠ってしまう。私は布団を敷き、やれやれと肩を落として沙也ちゃんを運んであげた。
 本当は、スマホは忘れたわけじゃない。
 クレジットカードも、忘れたわけじゃない。
 解約して、処分したのだ。もう私には必要ないと思って。でも、また契約し直さなくてはいけない。スマホとカードだけじゃない。私は自分の家の家具をすべて処分し、住んでいる家の契約も月末で終わるよう手続きを済ませていた。
 もうずっと昔から――父と母に「お前が高校を卒業するまでは」と言われたあの時から私は、自分のことを時限式の爆弾だと思いながら生きてきた。強迫観念のようにずっと、その考えは私に張り付いて離れなかった。そしてそういう気持ちを抱えながら暮らすのは、とても辛く――とても、辛いものだった。叫び出したいほど、辛いものだった。
 けれどまた、そんな気持ちを抱えて、生き直さなくてはならない。
 いびきをかいて、呑気に眠る沙也ちゃんの寝顔を見ながら私は、耐え切れずに熱い涙をほろほろと流した。私が泣いても沙也ちゃんは起きない。ぐうぐうと眠り続けている。私は沙也ちゃんのこういうところがとても好きだ。心底いいなあと思う。誰かの怒鳴り声や泣き声で目を覚ましたことなんて、きっと今までの人生で一度もないのだろう。だからこんなに、安心して眠りの世界へ意識を飛ばせるのだろう。
 窓の外に、海が見える。夜に見る海は昼間と違って、世界にぽっかりと穴があいたようで恐ろしい。
 私はせめて小さく、小さく丸まって、眠りについた。ざあざあ聞こえる波の音。空想の中であの崖の上に立って、私は叫ぶ。せめて、と思いながら。
 神様の、バカ! 

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