パウル・クレーにもドビュッシーにも会うことはできないけど歴史があって伝える人が居て本や言葉として今に残ってて それが現代を生きる自分に届いてるって凄いことだなと思います 本人が見たら そんなこと言ってねーよ! 私そんな人じゃないんですけど!!とかもきっとあるんだろうなってのも想像したら面白い 芸術と、嘘と 向き合ってみたいな自分なりの尺度を持って。
悔しさを感じれなくなった時が 人間の賞味期限切れが始まる合図だと思うのです。 人間に賞味期限なんて言葉を使ったから 大人の人に怒られました。 まだ少年だった僕の、14歳の冬の記憶です。 あれはなんで怒られたんだっけ、な 断片的な記憶だけが強烈に脳裏に住みついてることがよくあります 反対に、さっき食べたラーメンの味くらい鮮明に覚えている遠き記憶に救われることもあります この辺は長くなるのでまた今度。 話は賞味期限に戻るけど 今でも時々、そう思う もしかしたら今の方が強く
よく、何かを諦める理由として使われる言葉 自分には才能が無かった。 あの人とは才能が違う。 ぼくもそんなふうに考えてた時期はあった。 才能ある人と、自分との現在地の差に 絶望して、自分は何でこんなに才能が無いんだって嘆いた夜は数え切れない でも最近はこう思う 才能なんてきっかけの1つに過ぎないし 結局は壁に直面した時に 乗り越える方法をいくつ思いついて いくつ試してその結果いくつ壁を乗り越えたかが その人の現在地になっていくんだと。 僕が追いかけてる周りの 凄い人、追いつ
大人になると言いたいことや思ってる事を素直に100%発信するのは難しくなる。 社会性や協調性 いわゆる常識とか立場って呼ばれてるものが人それぞれあって 気持ちや言葉は「自分」という器から出る時に、 「他人」というフィルターを通して届いてしまうからどうしても思ってる事を伝え合うのは難しくなる それに加えて僕は 「どう見られるか」を気にすべき場所に生きているから、尚更 自分というモノから不純物を濾過して裏と表だけを形にしたものを自分だと見せている気がする 嘘でも偽りでもなく