クリエイティブへ爪先を

好きなものは山ほどあるけれど、物心ついてから、クリエイティブであったことは一度もない。

幼稚園の頃は絵を描いたりなにかを作ったりするのが好きだった。
絵画教室にいちばん仲の良かった女の子が行っていたから、私も行きたいと言ったけど、母から「あの先生はそんなに絵がうまくないから駄目」と言われ、なぜか硬筆に通わされていた。
おまけにそれは毎週金曜日の夜で、当時大人気だったウッチャンナンチャンのウリナリの時間とかぶっており、録画もしてもらえなかったため心底行きたくなかった。

しかも大人になってよくよく母に聞いてみたら、絵画教室の先生の絵の良し悪しもあるが、なによりも私生活が不倫などでずるずるで先生自体が好きじゃないからという理由だった。むしろ絵画教室の先生なら、多少クレイジーなほうが習いがいがありそうなものだが。

(そういえば、「英語教室に通いたいと言ったときもあの先生は発音が悪いから駄目」と言われていた。こちらは本当に発音が悪かったから習わせたくなかったらしい。あの当時、今のような十分なインターネットさえあれば、オンラインで上手い先生から習えていたかもしれない。今の子供たちは恵まれているなぁ。)

そんなこんなで、だんだんじゆうちょうにも絵を描かなくなっていった。

中学1年生のとき、だまし絵のような作風で有名なエッシャーっぽい絵を描く授業があり、うっかり市のなにかしらの賞をとったことがある。
丸い円のなかに、黄色い鳥と緑の銀杏の葉が折り重なっているような絵。
それが最初で最後だ。
あの絵ですら、なんで表彰されたのかよくわからないし、引っ越しでどこかにいってしまった。

そうして、大人になった今でもピアノを弾くこと以外になにかを表現したいという気持ちにならないし、湧いてもこない。

写真は撮ってみたいけど。 

つまるところ、まるで創造的な人間ではないのだ。
そのくせ、映画も小説も音楽も絵も建築も大好きなのだから、なんというか、自分でもタチが悪いと思う。

もっと、可愛いカフェでお茶をしておいしいね可愛いねと写真を撮って、夜ご飯もお洒落なお店でおいしいものが食べれてしあわせ、スタバ寄って帰ろう、というような具合の大人になっておけばもう少し生きるのも楽だったはずである。

一時期はこの中途半端文化的女を脱却するために、短歌か俳句をやろうとしたが全く向いていなかった。どう頑張っても自分の気持ちや感じたことは、17字はもちろん31字でもおさまらない。

そうすると、どんなに映画や音楽の趣味が共通していて、おしゃべりするのが楽しい人と出会っても(性別は関係なく)

「服飾の専門を出たけど、独学でカメラの勉強をしてカメラマンになりました」

等と言われると、それだけですこーんとノックアウトされてしまう。洋服をつくる勉強をしてきたのに、今は写真で食っていけてる!?!?と。
急に文化的な顔をしているくせに全くクリエイティブではない自分が恥ずかしくなってしまうのだ。
だからこそ、初めて西加奈子の『通天閣』を読んだときにグッサグッサと刺さった。

「頑張ってて、新しい映像を作れば、あんたは好きになるのか。(中略)頑張ってるときの目がきらきらしてる?本人より作品に惚れたと言った方が正しい?じゃかましい!夢に向かって頑張っていないと駄目なのか、何かを作っていないと駄目なのか」

もう、本当に私が思っている気持ち、まるまんまである。流石に、クリエイティブな女性を好きになったから君のことは好きじゃないとふられたことはないが、常に私の心の奥底にこういう気持ちが隠れていると思う。

あーあ、あのとき、絵画教室に通わせてもらっていたら何かが変わっていたのかも、なんて人のせいにしても仕方がない。仕方がないけど、創造的な才能のない自分がどうしようもなく嫌だ。

文章を書くというのはクリエイティブに入るのだろうか。小説やエッセイだったら、確実に入るだろうけど。今のこのブログだと、クリエイティブに片足を、いや、爪先ぐらいをつっこんだレベルだろうか。

今年はやはり、写真を始めよう。

できたら、何かしらのメタバースもやろう。

別にクリエイティブになりたいからやるのではない、やりたいからやるのだ。

くらいのパトロンになりたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。その際には気合いで一日に二回更新します。