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『僕の"壮絶過ぎる"過去』

出る釘は打たれるが
出過ぎた釘は打たれない!
どーも!"J"です!

今回は初めて
"J"自身の事を記事にしたいと思います。
今まで僕の経歴くらいは公開してましたが

僕の22年と2ヶ月をこの記事に
ギュッと凝縮して皆様にお伝えできたらなと
思っています。

それと…

今現在の"J"はこんなこと考えて生きてて

『"2年後にはこんな事しでかすよ!"』

って事を皆様に
『"熱苦しい程語っていきます"』



『自己紹介』

この自己紹介は軽く
YouTubeでした事はあるんですが、
詳しく説明した事がないです

でも、『今回動画の尺は存在しない』ので
マイペースに
記事にして、文字で自己紹介します。

『自己紹介』
・生年月日   "1998年4月7日"
・年齢       "22歳"
・出身地    "静岡県富士市"
・血液型      "A型"
・最終学歴    "専門卒"
・尊敬する人   "堀江貴文"
・現在の職業   "料理人"
・過去の職業   "電気工事業"
・経験人数    "70〜120くらい"

ザックリこんな感じです。
最後だけ気になった方いると思いますが

『えっ。なんで引いてるんですか?』

慌てん坊さんですね。
なんの経験かは言ってないですよね
この件に関してこれだけは言っときます。
貴方が想像したのが正解でOKです。

さてこれからもっと詳しくお伝えします。

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『"J"の幼少期〜小学生』

"4人姉弟の末っ子"として生まれました。
上3人は皆姉で、僕だけ男の子です。
1番歳の近い姉と9歳離れていて
1番遠い姉と13歳離れています。
(親は同じです…)

周りから家族構成の事を話すと

『そんなお姉ちゃん多いと可愛がられたね』

と、言われますが。
んー。真逆と言っても過言ではないくらい
厳しく、御指導頂きましたね。笑笑

特に1番上の姉と喧嘩すると
角ウイスキーの瓶が飛んできたことも。
(中学の時の話)

そんな"J"はどんな子供だったかと言うと
文字通り『わんぱく少年』でしたね。
小学3年生の時に母が担任の先生に

『昭和の子供のようなわんぱく振り』

と、言われたらしいです。
(母は何故か嬉しそうに話していた。)

僕自身の子供の頃を象徴する言葉は

『負けるのが大嫌い』

でしたね〜。

兎に角負けたくない。
『どんな手を使っても勝つ』みたいな

気付いたら小学2年生の頃
小学6年生のドッチボールに混ざって
遊んでました。笑笑

今思うと狂ってるなとつくづく思います。

そして、
顔面にボールが当たって泣いてました。笑笑

しかもその6年生はなんと。
『野球』やってる人なんですよね(笑笑

6年生の中でもさらに球早いんですよ笑笑

何故その人達を選んだんだ俺!

元々、水泳をやっていた事もあり
運動神経も良かったので自信はありましたね
ですが、小学2年生の頃に
スイミングスクールの先生と喧嘩して
突然水泳を辞めます。
そうすると土日が暇で、元々
友達と遊ぶとか考えた事もなかったので
退屈で仕方ありませんでした。

そんな中、保育園の頃から
仲良かったというか、ライバルみたいな
友達に

『野球の試合助っ人こいよ!』

と、誘われたのがきっかけで
なんとなく野球を始めます。
(僕としてはまあいっか程度)

その『"野球"』と出会う事で
僕の人生の第一分岐点を迎えます…


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野球との出会い

結果的に小学3年生〜高校3年生まで
続ける事になるのですが
正直いって、あの野球をやってた10年間は

『"一生味わいたくないくらい辛かった"』

小、中、高と野球をやっていましたが
この全ての監督が、めちゃめちゃ古い人達で

殴る蹴る、罵声を浴びせる、ボールぶつける

こんなの当たり前でした。
唯一高校だけ、暴力はなかったですが
精神的に追い詰められましたね。
(体罰問題が問題になり始めたぐらいの時)

特に小学校はキツくて。
毎日練習に行くのが怖くて辛くて
胃が痛かったです(笑笑)

正直言ってあの頃の僕は野球が大嫌いでした

そりゃそうでしょ!
辞めたいと言えば家まで迎えくる癖に(監督)
練習始まればボッコボコ

中学は硬式のクラブチームに入ってましたが
その監督はビンタの威力がエグい
(やられると脳震盪で頬より頭痛い)

高校は、結果を出さなきゃいけない
プレッシャーに押し潰されて
身動き取れませんでした(精神的に)

ですが、一応運動神経は良かったので
小、中、高の全てで副部長を務め
常に中心選手でした。

今は野球大好きですが
あの頃、野球を楽しむなんて無理でしたね。

何故ならチャンスで僕の打順に回ってきて
打てなかったら
ベンチ帰ってきた瞬間『ボッコボコ』

打席に入る度に"ブルブル震えてました"

そして、話は戻り
野球を始めてから1年〜2年経つと
僕に悪い癖がつく様になります。


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学校一の危険人物

もはや黒歴史レベルですが
小学4年生辺りからほぼ全ての人(先生を含め)
に対して、悪態付きました。
その当時の事を思い出して
今の僕が分析するに

"俺はこんなに辛い事してるのに
何故お前らは楽しそうなんだ"

これが根源だと今はハッキリ断言できます。
子供ながらに最低ですね。
申し訳ありません。

正直言って、羨ましかったです。
僕以外の全ての人が…
当たり前に学校生活をする事が。

それに加えてこの頃
『"両親の離婚"』が重なり

小学4年〜中学2年まで非行少年になります

非行と言っても歳は10歳〜14歳なので
喫煙や飲酒はしてませんが
それ以外の悪い事はだいたいしました。

母は何度も学校に呼び出され
何度も学校で泣く母の姿を見て

無意識的に"悪いのは俺じゃない"

と、思い
悪びれる事なく思うがままに生活しました。

小学6年生にもなると
学校内で歯向かってくる人は居なくなり

文字通り

『"ガキ大将"』

になりました。

ですが、小学校卒業間際のある日
一気にどん底になる出来事が起きます。



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一気に孤立、誰も寄ってこなくなる

卒業まであと3ヶ月程経つ頃の事ですが
僕は友達と(ほぼ手下みたいな扱いしてた)
市境というんですかね?その辺りに
凄く大きい公園があって、
第二東名新設に伴って出来た公園がありました
そこで公園全体を使って
ケイドロの様な遊びをしていた時でした。

かなりイカれていると有名な
隣の市の小6の子達と遊ぶ時間が被り
お互い、邪魔くさく思っていました。

その時一緒に遊んでいた友達は
多分10人〜18人くらい居て
一応その"長"だったわけなので
今考えても謎なんですが、

僕は何をしたかったのか

隣の市の小学生のうちの1人を殴ります

ここからが更に謎な行動に出るのですが。

その子の顔を2.3発殴った後、
僕は

逃走します。

まず、一緒に遊んでた友達に

『やってやった』

みたいな、だっさい報告をしたのに
逃走を図ります。

そうこうしている間に
殴られた側の子達が何人か別の友達を呼び
『手出されたぞ』みたいな雰囲気になり
お互い数がいた事もあり
30人〜40人その場にはいた気がしてます。

それを見て

『やばい。』と察した僕は
逃げるぞ!と言って皆で逃げようと
提案し、全員で逃げます。

案の定追っかけてきたのですが
僕らが逃げたのは
僕らの『"地元の区域"』
逃げ切れましたが

どうやら『"その様"』に納得いかないのか

僕が一応"長"役でしたから。
周りからしたら白旗を振った様に見えた様です
(まあ白旗振ったつもりなんだけど)

それから。

今まで一緒にいた友達が関わってこなくなり

シカトまではされませんが、
一切相手にされず、和に入れず
遊ぶ事もなくなってしまいました。

そして完全に関わらなくなり
2ヶ月程経った頃。

またもや事件は起こります。

僕はこの一件があってから
『"強がるのは辞めよう"』と会心してました。
理由は、小学校の野球を引退した頃から

『"チームメイトを友達と言えるのか"』

と、疑問を持ちました。

それはチームメイトだけでなく、
学校の友達も

僕の事を極端に怖がっていました。

その事が12歳になるちょっと前に気付き
そこで初めて。

『"なんて事してたんだ"』

ですが、もう遅過ぎる。

皆の気持ちを考えた言動や行動を意識し出し
周りの友達も『えっ。』みたいな
リアクションをとっていました。
急にまともになるもんだから
当たり前のことを言っただけで

『まともになった』『優しくなった』
『なんか気持ち悪い』

いろんな事を言われました。

ですが、この事をよく思わない人達も居て

『あいつ腰抜けになった』『ビビリ』
『モテに走った』

など、かつての友達から言われるようになり

前々で僕なら
殴りかかりに行くところですが。

僕の中では"友達"でした。

なので、『これは今までの報いだ』と
我慢する様になりました。

ですが、結果として
僕の周りには
"友達"と呼べる人は存在せず
何をするにも1人になり

その時初めて"孤独の辛さ"を知る事になります

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『"完全に不登校になる"』

中学生になっても現状は変わらずひたすら
孤独と向き合う日々が続きます。

これまでの僕は

言いたい言葉を吐き、ムカついたら手を上げ
何でもかんでも自分の思うがままに過ごし
歯向かう人間が出てこない程
完全に"独壇場"だった僕が

あるきっかけで、"孤立"

人生で初めて、孤独の辛さをしり
絶望していると、次から次へと

僕の精神を破壊する出来事が起きます。

まず1つ目は"周りの目"です。

僕は今まで学校で1番目立っていて
お調子者だった僕が、
常に1人で行動している所を見られるのが

当時の僕にとって何より屈辱的な事でした

1人で行動する僕の方をみて
コソコソと話されると
自分のこと言われてるんじゃないかと
常に思っていましたし
仲の良い女子からも、痛い目で見られる様に。

さすがに、なんとかしなくてはと思ったので

さっそく行動してみる事に。

最初に試したのは
"新しい友達を本当の意味で作る"

もう一度リセットした気持ちで
友達を作ればなんとかなるのではないか
"本当の僕"を見て評価してくれるのではないか
そう思い、相手の事を思いやり
言動、行動に気をつけるようになりました。
ですが、全く上手くいきません。
どころか逆効果に。

今まで偉そうな態度を取っていた奴が
急に仕立てに出てきたら
『なんだこいつ気持ち悪い』ってなりますよね
それだけならまだいいです。

これまでの"お返しの如く"

新しい信頼関係を築こうと思って接していた
友達が、急に関わってこなくなります。

これはかなり精神的にきましたね。

そしてこれは1回や2回ではないです。
僕のやり方もきっと悪かったのでしょう。

その当時関わっていた人達はほぼ全員

"僕の敵の様な存在へと変わっていきます"

理由は今でも定かではないですが
(僕が思うに彼らが根回ししていた様です)

僕は中学の頃部活ではなく
『硬式のクラブチーム』に所属していました。

そしてその同じチームには
かつてのチームメイトであり
僕が友達だと思っていた連中も所属していて

もちろん、変わらず関わってきません。
同じチームですが完全に他人の様に振る舞われ

学校も野球もとても辛い環境下にありました。

ですが、元々の火種は僕にあるわけで
責任として僕はずっと我慢しました。

そして中学生活も慣れてきて
学校は相変わらず、適当にしてました。
(昼前に登校して給食食べて帰る日も)

"学ランの中に和服やパーカーを着て"
"先生の言う事は聞かない"
『そんな俺かっけぇ』みたいな感じで

喧嘩とか悪い事は殆どしなくなりましたが
やはり

"不良はカッコいい"

という謎の思考を変えられませんでした。
(何故なら不良はモテるから)

そして野球の時だけ

"真人間"のフリをしていました。

そんなある日の事でした。
自分で言うのも難ですが

野球のセンスはめちゃめちゃあったので

"下級生で僕だけ、大会スタメン出場"

を果たす事が出来ました。

そして、僕をシカトしている連中は
これを見て、よく思わない訳です。

一応彼らも僕も野球はしっかりやってましたし
やるからには結果出したいし
活躍したいと思っていました。

彼らからしたら

"またあいつだけ美味しい所持っていきやがって

そう思われていたと思います。

それから2ヶ月程経ち
その元チームメイトで元友達は(2人)

急にクラブチームを辞めてしまいました。

最初は野球部に入るのかと思っていましたが
どうやら違った様です。

2人共急にヤンキー化してしまいました。

元々彼らは数十人のグループで
行動していたので、自ずと

ヤンキーグループの様な団体が出来上がり

校内でタバコはもちろん
原付バイクを校内まで乗り込んできたり

完全にグレ始めてしまいました。

そして僕の周りでも変化がありました。

それは

『"皆が僕を差別する"』

ようになりました。

多分彼らの圧力とノリの良さに流れて
もう校内で僕と口を聞いてくれるのは

『"全く事を知らない女子と先生くらい』

ですが、先生は僕の自由奔放さに
『"かなり面倒な生徒"』という印象になっていたので、僕の話は基本的に聞いてくれません。
(言いたくもないけど)

つまり、学校という集団行動の中に
僕だけ、

『"集団行動を許されない"』

という人間になり

"孤立どころか別の意味で1番目立つ立場へ"

もがけばもがくほど、どんどん落ちていく。
そんな感覚がこの時にはありました。

もうどうしようもできない。

でも、

『そもそも無理して学校行く必要あるのか?』

元から学校で勉強なんてやってなかったし
高校なら野球で行けばいいと思っていました。

『"もう行きたくない"』という理由と
『"行かなくても高校行ければ別にいい"』

というワガママな考えにより
中学2年の9月頃〜中学2年の2月まで

『不登校』へと成り下ります。



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"引きこもり"→"転校"→"高校進学"

数年で急展開を迎えた学生時代の"J"
毎日毎日、DVDを見たり
動画を見たり、ひたすら

"何もない日々"を過ごしていました。

ですが、野球のクラブチームはそのまま所属
変わらず主力として試合や練習に取り組み

外に出るのは体を動かすor練習行く

それ以外はずっと自分の部屋に引きこもって
居ました。

ですが、さすがに自分自身危機を感じてました

『このままだと高校すら行けない』

さすがに高校野球は経験したい…

ですが、もちろん学校に通ってない訳なので
成績は最悪。テストはおろか授業すら出ません

『"野球の推薦で行く"』

なんて、息巻いてましたが

当時は成績が最低限ないと推薦は貰えません

今の学校へは通いたくないけど
成績は最低限欲しい…

そこで僕は思い付きました。

『"よし!転校しよう"』

転校すれば、学校へ通えるし
成績も貰えるはず。

その事を母に伝えましたが
猛反対。そんなことできる訳ないと
言われましたが、
僕はネットを使って転校が出来ることを知り

強引に転校へと話を進める事に。

そして、出来るだけ
他中(他の中学)と関わりのない
真面目な生徒が多い中学校を選び

そこで

"もう一度中学生活を始めるぞ"

そう決意しました。

転校した当初、やはり
元々悪さをしていた僕の噂はあったのと
無意識的に目付きが悪かったそうで

"全く誰も話しかけてきません"

孤独な気持ちを押し殺し

"高校に行ければそれでいい"

そう思っていた時でした。

その中学で唯一

"不良そうな子が僕を見に来ていた事に気づき"

『絶対関わらない様にしよう』と
心に決めていました。

そしてある日
僕が同じクラスの子と軽く
お喋りをしている時でした。
不良そうな彼は僕にこう話しかけてきました。

『今日暇?』

まさか、遊びに誘うつもりかと
驚きましたが、僕は関わらないと決めたので
『今日は野球の練習があるんだ』
と、少し冷たく応えました。

これで感じ悪いやつと思われれば
もう関わってこないだろう。

そう思った瞬間でした。

『じゃあいつ暇?マックいこうぜ』

『これは断れないやつだ…』
そう思い、暇な日にちを伝え
そしたら彼はちょっとニヤけて

『その日は新年会や』

と、2月末なのに新年会と言い
そして、謎の関西弁。

悪い奴には見えなかったです。

そして数日経ちマックへ行き

僕らは一瞬で打ち解け
毎日学校の後は遊ぶ仲になりました。(笑笑)

同じ外部のスポーツチームに所属していた事で
お互い部活が無く帰っていたのが(彼はサッカー

僕らを一瞬で打ち解けるきっかけとなります。

そしてそのまま僕は普通の学校生活を過ごし
ちゃんと成績を貰い(めっちゃ低いけど)
高校も『"裁量枠"』で入学が決まり

これでようやく
普通の高校生を過す為の準備が整いました。

高校も今まで通り

『"普通に生活をしよう"』

と、心に誓いました。が!

その入学する高校が

『全然普通じゃない高校だったのです』




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通称『軍隊高校』きつ過ぎる校則          ハード過ぎる高校生活

晴れて普通の高校生活が始められると
ワクワクしていた3月の終わり。

市内で1番偏差値の低い公立の工業高校ですが
僕の内申点(成績表)で推薦で入れる
公立高校はそこしかありませんでした。
(私立はお金かかるから入りませんでした)
(ちなみに県外の私学からのお誘いもあった)

ですがここでも僕は悪夢を見ることに

なんと、その高校は
別名

『"軍隊学校"』

噂では、刑務所みたいな学校と言われていて
県内有数のスパルタ校でした。

体育はまるで自衛隊の訓練の様な内容。
授業はいつでも緊張感と隣り合わせでした。

髪型は殆どの生徒は"坊主"
僕は野球部なので当たり前に坊主。

眉毛の加工は一切禁止。
くるぶしソックス禁止。
などなど、細かいことを言うと
キリがないくらい
校則が厳しかったです。

それもそのはず男が9割の工業高校ですから
校則ももちろんでしたが

高校特有の"青春がない"

がっくりでしたね。
『あっ人生の選択ミス』と
心の中で囁きました。

この高校では"ルールを守る"が絶対

僕はルールを守るのが当時苦手で
眉毛を細くしたり
制服を崩して着たりしていました。
(他の高校では問題ないですが)

カッコつけたい年頃ですからね…
(結果謹慎に近い罰をつける)

この高校3年間で僕が学んだ事は

『協調性やルールの重要度』

を主に学んだ事だと思っています。

その他にも自分のマインドのコントロール
(外部のメンタルトレーナが存在していた)

でした。

正直言って

"この学校生活を今振り返って思う事は"

『"僕は洗脳されていた"』

『何故そんな事言い切れるんだ?』
そう思ったと思いますが
間違いなく僕は、いえ僕達は洗脳されてました

理由としては

当時の野球部の顧問の先生は
この道30年のベテラン教師でした。
当時生徒指導部長で
元々ヤンキー高校だった高校を(僕が入学した所

就職率100%に押し上げました

その就職先は大手も多く
ネタバレすると
実は僕も"一流企業"へ
就職を決める事になります。

察しが良い方はもう気づいたと思いますが

中学校を半分も登校していなくて
しかも、悪さばかりして
ルールもまともに守れない生徒が

一流企業に就職って。しかも高卒が。
不可解過ぎますよね。
コネでも使わなきゃ入れない領域です。

ですが、僕はコネなど一切使ってません。
一般的に試験により内定を頂きました。

何故そんな事が出来たか。

それは当時の顧問の先生の

"マインドコントロール"

にも近い技術が凄かったです。

今だから分かりますが
尋常じゃないくらい凄かったです。

入学当初の僕は
テストのクラス順位40人中38位で
ルールは守らないし
授業中携帯をずっといじってるし
気にくわないやつ殴ってるし
部活しかちゃんとやらない生徒が

結果的に

テストの順位は38人中12位まで上がり
体育実行委員長をやり
部活は副部長とメンタルリーダー
(メンタル面を管理する仕事)
授業もしっかり受ける

こんな生徒にまでなりました。

ですが、部活は県大会にすら出てません。
そう。その顧問の先生は
生徒へのマインドコントロールは上手ですが
野球の采配や人材育成の能力は
今まで野球を教えてくれたどの指導者よりも
『下手くそでした』

そして試合に負ければ

〜のせい、〜が出来てないからだ
でも責任は監督の俺が取る

結論かなり癖のある指導者でした。

僕は学校生活の面で凄く良い影響を受けましたが、

野球に関しては全くダメで

僕の通算本塁打は4本なのですが
そのうちの3本は入学してすぐ打ちました。

そこから3年の春まで1本も打ってませんし、

軽く恐怖症みたいな感覚もありましたし
精神的に辛かったというより
苦しかったですね。

そんな高校での学校生活と
10年間の野球人生に終止符を打ち

晴れて

一流企業の正社員

として、社会人生活がスタートする事に。




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一流企業をまさかの1年で退社。上京をして料理人としての人生が始まる

最初僕が働いていた職業は外仕事の
"電気工事士"でした。
元々野球やっていた事もあり
体を動かす事にそこまで抵抗はなかったのですが、その会社は"部活を越える程"

超体育会系の会社でした

残業、休日出勤当たり前。
会社の為に働き。稼いだお金を娯楽に使う!

『"男の生き様"』みたいな

だっせぇ!って思った方!
同意見です(笑笑)

僕には何がいいかさっぱりわかりませんでした
仕事もやり始めの頃から上司にボロカスに
言われ、怒鳴られながら毎日働いていました
給料はそれなりに良かったですが

週6で14時間労働して27万って
これ時給換算したらいくらだよ…

『バイトした方がいいじゃん…』

それに先輩や上司と
仕事の価値観が全く違う事に気づきました。

先輩、上司の『"仕事"』

・稼いだお金は娯楽や服や車に使う
・我慢するのが当たり前
・辛いのが仕事
・仕事終わりの酒が大好き

当時の僕の『"仕事"』

・将来独り立ちする為の経験の場
・お金は親に返す(育ててもらった分の)
・稼いだお金は好きな事する為のツール
・酒を飲む事自体に価値を感じていない

こんな感じだったので
『あぁ、そもそもこの人達と価値観が違う』

それに業務自体は
1年働けば誰でも出来るような仕事で
独り立ちなんて絶対できない内容でした。
何故なら会社の規模が違うため
社員3万5千人の規模でないと
展開できない事でしたから
仮に同じ事をしようと思っても
気が遠くなりますし
そもそも興味がなかったです。

一方でその時の僕は
その会社で働く事によって

得られる物はなんだろうと考えた結果

・お金
・ストレス
・疲労
・妥協心
・忍耐力
・根性

これらは確かに得られるなと思いましたが

『お金以外いらねえ!』

そう思い、社会人として生きてきて
初めて壁にぶち当たりました。

1ヶ月程、悩み悩み悩み…。
ですが、さすがに無理でした。

お金の為に我慢するくらいなら
汚い仕事して大金稼ぐ方がマシ

今の給料の半分でいいから

『"好きな事で稼ぎたい!"』

そう決意し。
早々に辞職を伝え、辞めることに。

そして前からホントはやってみたかったけど
給料安いし、大変だからという理由で
諦めていた、『料理人』になることを決め

東京へ1人で乗り込む事になります。

ちなみに最初僕は

『"専門学校へ入学する事を決意"』

この、専門学校入学に関して
親族からもかなり反対されました。

『"専門学校なんて通う意味がない"』

確かにそうかもしれませんが

"包丁も握った事ない奴がいきなり社員って"

その会社にも失礼ですし、
結果として従業員の仕事を増やす行為です。
それに、そんな環境で働いたとしても
スキルアップとしてはかなり不効率だと思い
親族の意見を押し切り

『専門学校へ入学します』

ここから初めて僕は
自分の生き方を『"自分で組み立てる事"』に
"挑戦します"

結果的にこの"組み立て"は大成功だなと
自分で思っています。

どんな"組み立て方"をしたか

それは、選んだ専門学校を

"週3日の授業でその分授業料も安い"

という、かなり変わっている所に決め
学校は週3しかないので
実際に飲食店で働きながら
学びながら働く事ができますし、
仕事でわからなかった事を学校で質問する事も
出来ますし、仕事中疑問を学校へ行く事で
解消できるので
スキルアップという観点で
効率がいいなと思いましたし
実際にスキルアップの速度は周りの同級生と
比べて断然早かったです。


さて。間も無く
現在の僕まであと少しで追いつきます!
ちなみに…
この記事は累計時間
この段階で20時間程かかっております。(笑笑)
記事作成に関してはもう少し慣れが必要ですね

さて!続きといきましょう!
続いての項目は…




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『"料理人としての人生の開始"』22歳で『"独立"』へ


前の項目でもお話しした通り
専門学校へ通いながら
アルバイトとして飲食店で働く事を決めました
まず最初に働いたのは

"和食居酒屋"

このお店は居酒屋という業態ですが
客単価が5000円を越えるのに加え
席の回転数が速いです。
ディナーしか営業していませんが
18時〜29時まで営業しているので
忙しい時で売り上げが80万を軽く超えます。

そのお店で働き始めた時は
『"料理人"』という職業を選んでよかったと
心の底から思ったのを覚えています。

料理を作る事に僕は楽しさを持つ事が出来たので、長い労働時間は大変ではありましたが
日に日に自分のスキルが上がっていくのを
目の当たりにして、心が躍りました。
そしてお客様からの言葉や
先輩からの言葉がとても嬉しくて
しかもそれでお金がもらえる事に喜びを覚え
"ハマる事が"できました。

このお店での仕事が慣れてきた時
早々に僕は『"次のお店"』を見ていました。

実際和食に触れてみて
面白かったものの、日本人の僕にとって

『和食は家庭料理の域』

でした。

そう思っていた時に
学校での授業がフランスの家庭料理である
『"フリカッセ"』の授業でした。(クリーム煮)
これを初めて食べた時。
『西洋料理』への興味が湧きました。
いや。興味が湧いたというより
"虜になりました"最高に美味しかったです。

ですがいくら無謀な僕でも
さすがに今の技術でビストロやレストランで
働くのは、迷惑になるだろうと思いました。
ですが、だからといって今よりレベルの低い
お店で働くのは嫌なので
興味のある専門料理店で尚且つ
レストランにできるだけ近いお店で働こうと
と思った結果、たどり着いたのが

『"燻製専門のレストラン"』

で、働く事を決めました。

このお店は料理人初心者な僕にとっては
『かなりハードな環境』でした。

席数は60席程あり、三階建のお店
なのにキッチンは2人で回すというお店でしたが、料理に妥協はなくクオリティの割に凄く
安く思ってしまう程でした。
それは接客の上品さと料理への情熱が
そうさせていっているのだと思いました。

故に先輩は厳しかったです。
どんどんオーダーは飛んでくるのに
上手に切れなかったり、盛り付けも下手
営業中ずっと怒られながら働きました。

凄く落ち込みましたが
不思議と辞めたいとは思いませんでした。
これがある種の充実かと思っていましたね

ですが、それからしばらくして
僕はキッチンからホールへと業務が変わります
理由は、

新しく入った社員にキッチン業務を教える為

最初は新しい事が始まる事にワクワクしましたが、性に合わなかったのが正直な意見でした。
料理を出した時のお客様のリアクションが
直に見れるのは嬉しいことではありましたが
僕自身の手で作った料理をお客様に提供したいというのが本音でしたので、だんだんと
ホールの仕事はつまらなく感じていました。

ただ、その当時働いたお店はかなり面白く
勉強になっていたので辞めたくない気持ちも
ありました。

なので、僕が決断したのは

当時働いていたお店のシフトを減らし
別のお店でも働く。という選択でした。

そして新しく働く事を決めたお店が2つあり

1つは、オーナーシェフが少し有名な
スペイン料理の個人店

2つ目は、飲食店事業で都内でかなり大きい
企業のイタリアン

この二つを加えた合計3つのお店で
働く事を決意しました。

…先に結論を言うとかなり無謀でした。

体力的にしんどかったですね。
それに3つも掛け持ちしているとなかなか
仕事が覚えられなくて大変でした。

そんな生活を2ヶ月くらい続けましたが
僕はスペイン料理の個人店一本で働く事を
決めて、その他の2つを辞める事にしました。
(この間もちろん学校へも通っている)

そしてこの後も
薬膳料理専門店やビストロ、
セリ買いの魚料理が売りな居酒屋で働き
それぞれで学ぶ課題を作り取り組みました。

これが学校に通いながら働いた
僕のアルバイト履歴です。

まとめると

・和食居酒屋
・燻製専門店
・スペイン料理店
・イタリアン×3
(企業・個人店・繁盛店)
・ビストロ
・新規立ち上げのお店
・薬膳料理専門店
・魚料理が売りな居酒屋(魚捌くのを学びに)

大変ではありましたが凄く楽しかったです。

そして、専門学校を卒業。
僕はその後、内定を頂いていた会社へ入社
(もちろん飲食店)

所が入社してすぐに大変な事態に見舞われます

『"新型コロナウイルスの流行"』

これのおかげで僕は
4月に入社してすぐに自粛生活が始まります。
僕は『"退屈"』に耐えられない性分で
もう昼夜逆転どころか
一周回って朝5時起きとかになっていました。

体重も7キロ程増え、食費も増し
退屈という感情を料理を作る事で紛らわし
自粛生活をしていました。

ですが

"この自粛生活が僕の人生を変えます"

何が僕の人生を変えたかというと。
自粛生活中に退屈に耐えかねて
僕はSNSを始める事にしました。

主に

・YouTube
・Twitter
・Instagram

この三つを始める事にしました。
理由はせっかく料理作るなら解説と編集
加えるだけで動画にできるじゃん!と
単純な理由でした。

ですが、なかなか動画の再生数は増えず
ここで発動した感情が
『"負けず嫌いな性格"』という気持ちでした。

再生数を伸ばすために
いろんな発信をしているYouTuberの方の
動画をたくさんみるようにしたり
読書を始め、
Instagramのマーケティングを学んだり
人生観を学んだりする事ができました。

そのSNSで発信している『"成功者"』の言葉は
どれも僕の胸をえぐるほど面白く魅力的でした

僕は、仕事の価値観や
お金に対しての考え方。
生活費の考え方など

大まかにいうと

『"人生観が変わりました"』

主に
・ホリエモン
・マナブログさん
・メンタリストDaigoさん

などの方々の発信は僕を変えてくれました。

人生に対して臆病で石橋を叩いて渡るタイプの
僕に、失敗する事の重要性
楽しいという事の大切さなど
僕は今までモヤモヤしていた部分が晴れて

"今まで何をしてたんだろう"

と、思わせてくれました。

ですが、SNS発信の難しさ
実績がない僕が投稿することは全く魅力がない

いいね👍はされるけど登録やフォローはされず

毎日毎日悩みますが
でも、何故だか僕は心の底から楽しいと
思えた瞬間でもありました。

そうこうしているうちに

"自粛生活が終わりを迎える事になります"

心の中では
やっと働ける。という気持ちと
SNS発信ができ辛くなるという不安にかられ
なんとも複雑な気持ちでした。

実際働き出すと不思議と楽しくて
凄く心躍る気持ちになりました。
最初に3日間だけ働いた店舗で
SNS発信をしている事にとても
興味を持ってくれて、とても楽しかったですね
仕事もラムを扱うお店で
ラムの専門性がちょっとだけ身につきました
それ以上に最初は8時間くらいしか働かなくて

休憩もしっかりあったので
SNSも並行して投稿する事ができました。

ですがここから僕にとって地獄が始まります。

本配属として決まった店舗は
僕が2ヶ月だけお世話になったことのあるお店
(アルバイトとして2ヶ月だけ働いていた)

そのお店の特徴としては
回転数が物凄いのと営業時間がすごく長い店で
都内の直営店舗の中で1番か2番目に売り上げも利益も出していて
圧倒的に効率を重視している店舗で
"儲かる店舗"としてはすごく勉強になりましたが、あまりにも現実的じゃない展開の仕方に
(膨大な資金力が物を言う展開の仕方)

僕は『経験しておく価値はあるけど働きたいお店ではないな』と率直に思いました。

そこで働く事になり
一応ポジションとしては

前菜、ストーブ(ホット場)、牡蠣場

の3種類ポジションがあり
(お店の業態は牡蠣専門店)

僕はバイトの時点で前菜の仕事は2週間で
完全に覚え、こなす事が出来ていました。

なので、自粛が解除されてから(営業再開)
2週間ほどでストーブをたまにやっていました。

先輩達は、ストーブでの仕事を

『暑い』『1番忙しい』『1番大変』

と、言ってましたが
正直な所、ビックリするほど忙しいかというと
別にそうではなかったですし
暑いという事に関しても僕の中では
許容範囲の暑さだったので、何がそんなに
特別なのか全然わかりませんでした。

そして、営業が再開してから2週間程
経った頃でした。

僕は、こう思います。↓

『このお店つまんないし、働き辛い』

まず、何がつまらないかの説明です。

・既存の技術だけで仕事できる
・技術的なスキルアップが期待できない
・料理長以外の先輩はこのお店しか知らない
(別のお店で働いた経験がほぼない)
・なんの生産性もない傷の舐め合いが多い
・忙しくなるとイライラし出す人が多い

飲食店経験のある方ならわかると思いますが
結構ぶっ飛んでますよね。
『忙しくなるとイライラし出す人が多い』に
関しては100歩譲ってまだあるあるですが
それ以外は『本当にあり得ない事』です。

その他にも
役員や社長が来店すると何故か
お客様のオーダーがどんだけ遅れようが
役員や社長に優先的に料理を出して
ひたすらペコペコしてるんですよね。

この人達本質を見誤り過ぎてるな

と思いました。


ここまでの内容をみて。
『じゃあなんでそんなお店に入ったんだよ』と
思ったと思います。

実はこの会社は

飲食店にしては休みが凄く多くて
給料が高い会社だったんです。

細かく言うと、週休2日1日9時間以上働かせないと言うやり方で初任給25万(総支給)

これは飲食店勤務者ならわかると思いますが
常識外れな条件です。
僕はこの条件に惚れ込んで入社を決めました。
これだけ休めたら他にやりたい事を並行的に
やっていける。と思ったからです。

ですが、入社して一気に事態は急変します。

コロナの影響で会社は大赤字
その結果、現場で働く社員は10%の減給
そして、仕事では14時間働く日もありました。

こうなると、完全に本末転倒

お店の仕事レベル的には大衆居酒屋ですし
給料は安くて労働時間も長い
そしてまだ殆どの店舗が"赤字"

このままでは会社と共に僕の野望も夢も
潰えてしまう。と思ったので

結果的に

3ヶ月で退社を決意しました。

皆さん。ここで現在の僕と
同じ所まで追いつきました!!!!

現在7月1日で、実は昨日最後の出勤でした!

今日はこのnoteの完成と
休養を取ろうと思ってます。

1ヶ月間ほぼ休みなしで(並行して色々やってた)
平均12時間くらい働くとなると
頭おかしくなってきますから(笑笑)


まだ具体的な事は全然決まってませんが
この7月は僕にとって

"人生が変わる最初の一歩だと確信しています''


最後に『"僕の夢について語らせてください"』

僕の夢は、大まかに言うと
自分で稼げるようになりたいというのが夢です

小さいように思うかもしれませんが
現段階での夢がこれです。

それに夢は叶える為の物なので、
叶えて当たり前という感覚です。

料理で稼げるか、それともYouTubeで
稼げるようになるのか。
その他いろんな要素を取り入れて
"J"という1人の男として大きくなります。

それとサラッとここで発表しますが。

僕は来年に
お店をオープンさせる事を決めました!

今までの集大成を店舗経営という形で
締め括りたいと思っていて

1年で1店舗ずつ増やしていこうと思ってます。

店舗立ち上げの準備から何から全て
動画にしてYouTubeに載せたり
Twitterに載せたり

どんどん発信していきます!!!!



まとめ

如何でしたでしょうか。
これがJの22年間を凝縮して文にした
初めての試みです。

僕の人生ここからが本当のスタートだと
思っています。

どれだけ馬鹿にされようが関係なくて

もっともっともっと苦労して
もっと稼げるような力をつけて

そしたら僕が衝撃を受けた発信をしてくれた
方々のように

勇気を発信できるよう頑張ります。

それまで待っててください。

すぐに追いつきますから。


それではまた次の記事で!

ばいばーーーい!



















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