蛇足を削り尽くすと何が残るのか
何も残らない
noteを書いていていつも思うことなのだが、自分の文章は蛇足だらけで推敲しようとすれば、いくらでも無駄を削れてしまう
小説を読んでいるときも似たようなことを感じる、というよりは興味として考えてしまうことが多いのが、このシーンのこの描写って本当に必要なんだろうか?削っても変わらないんじゃないだろうかということ
こういう事を言うと作者に失礼なのかもしれないけれど、作品によっては、ある一節、一単語を削ったものと削らなかったものを比較して気付ける人が果たしてどれくらいいるのか?と思ったりする
それを突き詰めていって気づかない範囲で削り落として行った時に残るものとはなんなのか?
これはおそらく人によって突き詰め方は当然変わっていくものだと思うので、その人の感性でもって作品を削りに削って残ったものというものをそれぞれ比較してみるととても面白いんじゃないか
お互いに交換して見せ合えば
「そこ残したんだ!なんで!?逆に、ここなんで削ってんの??」
となるわけだ
小説に限らないけど、映画や漫画やアニメでも人によって必要なシーンとそうではないシーンというのが存在したりしないんだろうか?
作品というのは制作者の持ち物で、その制作者の作ったものが全てであり、それを改変するのはもってのほかだという考え方があるのは理解できるのだけど、現に今も作品から受け取っているものは制作者の100%表現したかったものとは乖離しているはずであり、むしろ受け取り手によって異なる解釈が生まれることを良しとしている向きもあると思う
とするならば、極端で乱暴な言い方にはなるが、作品の一部について要・不要を判断することも同じと考えられないだろうか
そうして削ぎ落とされたものを自分はその作品から受け取ったと言える
作品の倍速視聴に関しても同じ考え方が当てはめられそうである
倍速視聴は作品から「等倍で楽しむ」という概念を削ぎ落としたと言えるからだ
そうして、皆自分の好きなように作品を削ぎ落としながら楽しんでいるのではないか
もちろん、作者が何を表現しようとしたかをできる限り100%に近づけられるように汲み取ろうとする鑑賞の仕方もあリそれはそれで面白いとも思う
自分の興味は、他の人がどうであれ、自分が削ぎ落としまくった作品には一体何が残っているのか?という点だ
やってみればいいという気もするのだが、それはそれで大変な労力になるので寝てる間に、自分の分身がせっせとその作業をした後のアウトプットだけを見てみたい
とはいえ、自分のクローンもめんどくさいだろうからやってくれないだろうけれど
そこで自分のnoteだ
自分のnoteを見返して、必要のある部分、ない部分を冷静に精査していくと何が残るんだろうか?
と考えてみると、そこにはタイトルも本文も無い白紙のnoteだけが残っていそうである
そんなnoteを投稿してみようかとも思ったが、本文も白紙でタイトルも無いとそもそも投稿すらさせてもらえないようだ
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