淘汰の代替わり

クリスマス・イブにシャンパンを片手に話す話題としてはどうなのかと、翌日になって思ったのだが、あと一週間もしないうちに新年を迎えるわけだし、少し希望の持てる話でもあるので記録しておく。

我々人類の祖となるホモサピエンスは、聞いた話によると弱者(群れの中で不要である、群れを存続する上で危険となり得る人物)を淘汰して、ここまで進化してきた、らしい。
一説によると、言語を習得したホモサピエンスは、群れの仲間に「あいつ狩りがまるで下手くそだよな」とか「あいつの作る飯はいつもまずい」だとか、群れの中でなんの役にも立たない人物の噂話を広めるようになった。
その結果、満場一致で「あいつは群れにいらない」となった人物を、群れの強いやつが殺すのだそうだ。
この説のミソは「満場一致」という、噂話、いわゆる陰口によって「いらない」と皆が認知する暗黙の決定だ。みんなのためという大義名分があれば、人を殺したとて英雄扱いになる。だから「あいつはだめなやつ」という認識を共有する必要があるのだ。
この説は原始時代の話なので野蛮に思えるだろうが、現代社会に置き換えても、殺しはしないが静かに迫害している、されている、といったことはないだろうか。
そもそもこの話題になったきっかけが、お互いの会社の愚痴からで、会社というある程度の集団では、誰かひとり(もしくはあと二、三人)をターゲットにし陰口を言い合うことで共感性がぐっと上がる。それはおそらく珍しくはないことなんだろうが、人の悪口を耳にするというのは気分が悪い。けどそこに倫理や己の正義をぶつけても無意味どころか、自分がターゲットにされてしまう恐れが大いにある。
流動性の低い会社の中で自ら居心地の悪いポジションに座れば、毎日が憂鬱でしかたがない。でもやっぱり気分が悪いし、目を皿にして人の粗を探す下品な行為でも、それが過半数であれば「ふつう」とみなされてしまう世の中はおかしいと思う。友人は「吐き気がする」とまで言っていた。

そこで前途したホモサピエンスの話だ。
そう、我々が今生きているのは群れに不要な者を淘汰したお陰なのだ。
もし今の時代のように、多様性を認めましょうとかやってたら、本来不要とされていた者のせいでマンモスに食われて群れが全滅なんてことになっていたかもしれない。そうなっていたら、私たちは今、生きていないかもしれない。
つまり、私たちの中には、弱者を淘汰して生き延びてきた遺伝子が組み込まれているのだ。
「あんな使えないやつ会社に不要だ」
なんて言葉は、もう紀元前から集団を維持するための処世術からきているのかもしれない。

しかし、現代はSNSが発言の場として広く利用され、現実では言いづらい本音が吐露されるようになった。
そういった変化により、暗黙の過半数ルールの外で不満や疑問を抱いていた人たちの声がじわじわと人の目に留まるようになり、また、共感を得られる機会が増えてきたように思う。
これはつまり、倫理観は欠けていても過半数のルールだから正しいことになっていたものが、逆転する可能性も見えてきたわけだ。
まだSNSという現実社会から見れば水面下ではあるが、昨今の多様性云々の風潮が大きくなり、くわえてメタバース空間があたりまえになれば、陰口は「集団の輪を乱す行為」として頻繁に口にする者の方が弾かれる時代が近くまで来ているような気がするのだ。

ここ数年、SNS上でも見たくないものはミュートやブロックなどといった、自分の精神衛生上よくないもの、人の悪意といったものを目に入れないようにする行為が増えている。また、そういった人たちの声でミュートやブロックという機能を運営側が用意するのだから、企業としても穏やかな空間を提供したいという意識があるのだろう。
そうなるとやはり、陰口で共感を得て仲間意識を持つ行為は、紀元前から長いこと親しまれてきたが、ついにオワコンと化すのではないだろうか。

そろそろ誰かの悪口で盛り上がる、というのは過半数から白い目で見られる行為になるかもしれない。
会社で陰口を言いふらし盛り上がっている中年らに「そういうの、もう古いですよ」と言えるような未来でありますように。


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