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弱者救済が人類の生存戦略とは何か

某医師YouTuberの動画で「弱者を救うことが人類の生存戦略に繋がる」と言っていた。

弱者を救うことが、どう人類にとって生存戦略となるのか。その仕組みがまったくわからずしばらく考え込んでしまったし、なんなら今でも答えがわからないのでこうして記している。

前もって言っておくが私も弱者側の人間だ。
発達障害と精神疾患を患い、非正規雇用でついこの間まではひとり親だったので、私自信も生活的にも豊かではない。いわゆる貧困層だ。

まず弱者の定義が曖昧だが、ここでは「なんらかの脳の機能障害を抱えている」「なんらかの身体的障害を抱えている」そしてそれらによって、社会で生きづらさを感じている。とでもしておく。
更にそれらの障害や疾患を診断されていなくても、社会で生きづらさを感じている、も加えておこう。

さて、自分自身も弱者であるのに、救われることについて疑問を抱くのはなぜか。
弱者への救いが人類の生存戦略になると言われて、手放しで喜べないのか。

私はよく会社の喫煙所に行くのだが、そこで私とは別の部署の人同士がその部署の仲間に対する愚痴や揶揄を多々耳にするのだ。
私のような現業員クラスだと、他部署の人間と関わる機会もないため、部署が違う人間の前でも平気で誰かを乏しめる話に花が咲く。
そこでよく聞くのが「あいつ使えない」である。
その「あいつ」がどちら様なのか私にはもちろんわからないが、とにかく「使えない」人がいるらしい。
それは愚痴を零す(愚痴というより悪口と言ってもいいほどなのだが)役職が与えられた人間の指導不足もあると思うが、もしその「使えない」人間が誰ひとりとしていない職場環境ならば、業務がスムーズに進むのではないか。
彼らの話を聞く限りではそう思えて仕方ないのだ。

加えて私のようにストレスで身体に影響が出て仕事を休みがちな人間も、職場にとっては迷惑だろう。
とにかく、言われたことをきちんとこなし、尚且つそこから次の作業を予測し、ミスをしてもリカバリーできる能力がある。更に心身共に健康。
そういったいわゆる「無能ではない」人間だけで社会が構成された方が、効率的なのではないか。
自身のことを鑑みても、そう思えてならないのだ。

では強者だけの社会になった場合に、弱者はどうしろというのだ。
ここでベーシックインカムである。
これはあくまで私が弱者を代表として書いているわけではなく、弱者のひとりとしての意見だ。
ぶっちゃけると私は社会参加なんてしたくない。
最低限生活できるお金さえ頂けるのであれば、社会の外でひっそりと暮らすので、せめてWiFiとネトフリの会費だけは確保してください。社会の邪魔にならぬようにするんで。
というのが弱者のひとりである私の気持ちだ。

とあるうつ病患者のエッセイに、「社会と繋がりを持ちたい」とあったが、上記したように、社会と繋がると厄介者扱いされたり、馴染もうと届かない背伸びをして心のアキレス腱を痛めたりと、ろくなことがない。

そういった者もいる中で、たとえ救われたとしても、それが人類が存続することにどうやったら繋がるのだろう。
ちなみに生存戦略と聞いてピンドラを連想する私は、改めて生存戦略が何かを調べてみると
「生き残ることを目的として行われる一連の戦略的行動」
だそうだ。

ではより強い遺伝子を残すことが生存戦略ではないのか。
原始時代であれば、臆病な者、不安を感じやすい者ほど、生存率が高い傾向にあったらしい。
これは不安ゆえの慎重さから危険を回避できたからという説がある。
たしかに今でいう陽キャが「うぇーい!マンモスいる!ひと狩りいこうぜ!」なんて無謀に突っ込んでいっても死ぬ確率が高いだろう。

しかし科学の発展から生活様式の進歩が急速に進んだ現代では、この陽キャのような無謀ゆえの高いバイタリティの持ち主の方が必要視される気がする。
逆に臆病で常に不安を抱え、石橋を叩いても渡れない人間は、マンモスを見つけることすらできない。その間にひと狩りいこうぜ陽キャが現代科学や先人が残した知恵を使い、大業をなし得ていく。要は勝ち組になる。
つまり、現代において弱者を救い遺伝子を残すことは、生存戦略としては成立しないように思えるのだ。

そもそも「救う」とは具体的にどういうことなのか。何をもって我々は「救われた」と思えるのか。
たとえば福祉がめちゃくちゃ充実して、手厚い手当を貰えて、精神科医も増えて薬も進化して、障害者雇用も充実しました。みんなニコニコハッピー!
とはならんだろう。
それで「救われた」と思う人もいるだろうが、人が人を救うというのはそんな短絡的な話ではないはずだ。
なぜなら昔に比べれば福祉はだいぶ手厚くなったし、精神科医も増え、精神医療のあり方もかなり変わった。
なのに生きづらさを抱える人はたくさんいる。

これはおそらく、救おうとしていること自体が「救い」ではないのかもしれない。

アベプラのホスト売り掛け問題の回で境界知能が話題に上がった時に、堀江貴文さんが「規制も違うし、救うも違う」と言っていた。
それを聞いた時に「その規制でも救いでもない『何か』が答えなんだ」と確信したのだ。
しかし当の堀江さんもまだその答えにたどり着けてないようだが、それでもこれまで聞いた話の中でいちばん確信に近い言葉に聞こえた。

結局「救い」とは、手を差し伸べてその手を引き揚げて長期的に隣で寄り添うことを指すのだと思う。
しかし現実的にそれはかなり難しいだろう。
専門医であっても、毎日何十人と診ている患者に常に寄り添うことはできない。専門医でない者がそれをやると、双方行き倒れる可能性もある。カサンドラ症候群というやつだ。

こうなってくるともう「救い」というものが無理ゲーに近い。
それでは本題である「弱者を救うことが人類の生存戦略」の意味を探るどころかその戦略はすでに頓挫してるのではないか。
逆に弱者を救わないことで人類が生存できない理由はあるのか。
おそらく損なわれるであろうものは、倫理観や道徳観といったものだろうが、もし弱者を救わず強者だけの社会がうまく機能すれば、そんなものがなくても成立する成功体験により、罪悪感は薄れていくだろう。
アーシュラ・K・ルグウィンの『オメラスから歩み去る人々』のように、ひとりの子供の犠牲によって平和や豊かさが得られた社会では、ほとんどの住人はその事実を呑み込んで生活していくだろう。

ここまで長々と私の疑問がどういったものかを書き連ねてきたが、結局答えには行き着いていない。
もし軍法会議で「人類が生き残るためには、弱者救済という戦略を提案します」なんて参謀あたりが言ったら、閣下から大目玉を食らいそうな気がする。

弱者である私自身が救われることを想像しても、それが人類存続に役立てる気もしない。
もし「救い」というものが、寛解だったり障害の特性の緩和だとして、弱者の社会参加が活発になり、出会いが増え、結婚出産からの少子化解消という戦略ならば、もうそこに私たちの結婚出産に対する自由意志は救いの代わりに捧げてしまうようなものに思える。

「弱者を救うことが、人類の生存戦略」
美しい言葉ではあるが、プロセスがまったく見えないのである。

きっと、何者にもなれなかった、私たちへは届かない生存戦略だ。

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