なにが幸せかは、自分にしかわからない

友人2人とランチに行ってきた。3人とも同い年。それぞれに年を重ねたからこそできる話しがある。

自分を大切にするとはどういうことか、についての話になった。
職場で抱えすぎないこと。残業しないこと。できないことはできないと提示すること。こう書くと不真面目に見えるかもしれないがそうではない。約束の時間はお給料のぶんだけきちんと働く。

頼りにされることで開かれていく世界も重要だし、捧げることで返ってくる喜びがあることも事実だ。なんでもかんでも「できません」というのも本位ではない。

私は仕事をしていたとき「片腕くらいはくれてやる!」くらいの気持ちで仕事をしていた。それだけ仕事やお客さまへの愛が間違いなくあったと言える。そのくらい真剣に取り組むことで得るものはあったし、それは今も変わらず私の宝物だ。だから覚悟してやることは必要だと思う。自分の期待に応えることは時として必要だと思う。

大切なのは自分から「NO」を領域を提示できるかどうかだ。なぜなら自分できちんと示しておくことで周囲はそのように認識してくれるから。逆に言えば「NO」が示されていない人は「なんでも頼んでいい人」認定されてしまう。これは周囲の配慮が足りないのではない。構造的にそうなっていってしまう、という話。外とのすり合わせを行うことで、自分の輪郭線を理解しておくということだ。

周囲の期待に応えようとしたり「他にやる人がいないから」と引き受けてしまうと、構造が変わってくる。いつの間にか自分を犠牲にすることになってしまう。自分がいなくなったとき、あとを引き受ける人の仕事は膨大になる。結局だれにとっても幸せじゃない。さらに「他者にどう思われるか」が根底にあるから、自分の本来の欲求とはズレてくる。ヘタをすると承認欲求の解消が目的になってしまうことにもなる。私は間違いなくこれに該当していたと思う。

この状態はきっと「自分の幸せとはなにか」がわからなくなってしまっているのだろう。幸せとは仕事だけじゃない。生きていくことすべてにおいての話だ。

私も、どうなっていることが私にとっての幸せなのか?について、きちんと考えてこなかったなと思った。だから仕事をがんばってさえいればいいと思ってしまったのだと思う。働くこと「は」生きることではない。働くこと「も」生きることだ。仕事は生きることの一部分でしかないのだ。
決して会社が悪いとかいいたいのではない。自分がわかっていなければ誰にもわからないことだから、自分で知ってあげないといけないよね、ということなのだ。

これは「欲」の重要性についてということだねと話した。自分しか欲の所在がわからないから「これはどう?」「こうだとどう感じる?」と試して聞いていくしかない。

すごく好きなエピソードがひとつある。友人の一人は、妊娠中につわりがひどかったのだが、どうしても外食がしたくて「どれが食べれてどれがNGか」を試したらしい。「カメちゃん、私、ガパオライスはイケるから。タイ料理、行こう」と言われて笑ってしまったし、そんな彼女がとっても素敵だなと思った。欲望に素直なんだよね、と言って3人で笑った。

では、私の幸せとはなにか。私の欲望はどこにあるのだろう。

何度もここに書いているけれど、気が合う大切な人とたくさんおしゃべりしたい。友人も、家族も、恋人も全員いてほしい。私にとって他者とは外の世界と私をつなげてくれる存在だから。自分を広げてくれる大切な存在。つながりを感じて、受け取って、間に起こる風を感じたい。

そして、自分にとって誰が大切な人なのかは、感覚を研ぎ澄ませていくしかないねとも話した。私を不幸にしない人。一緒にいて嫌なところがない人。この感覚は誰かが教えてくれるわけじゃない。なんか野生だねーと話してまた笑った。

まだちゃんと見えているわけではないけど、他者と関わり愛するなかに、自分がこの人生で果たす、おおげさにいえば「使命」があるのではないかなとも感じている。だから自分ひとりで内に閉じこもることはもうしない。開いていくことで幸せになる。自分なんてきっと愛されない、とか思わない。

自分の欲に素直になる。そうすれば自分を苦しめる悲しいスパイラルからも解放される。もっと楽しく自由に、正直に生きるほうへベクトルを向ける。
舵を切ることは、自分にしかできない。







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