内藤礼とスケボーとリスペクト

リスペクトを感じると、私は震える、という話。



初めて行った国立博物館は、日曜日ということもあってものすごい人だった。観たかったのは、内藤礼「生まれておいで 生きておいで」。

内藤礼さんの展示は、以前に水戸芸術館でも一度観たことがあったのだけど、正直言って「よくわからなかった」。なんなの?これは。という感じだった。混んでいて落ち着かなかったというのもあるけれど、なにより、私が頭で理解しようとしていたのだと思う。

今、なにもない私が、内藤さんの作品を観たら感じることがあったりして。そんな興味が湧いて行ってみることにしたのだ。

会場は3箇所に分かれていて、第一会場はいかにも「展示室」という感じの場所だ。なのに、入ってすぐに目にとまるのは、作品と見る人を分ける大きなガラスにたてかけらた小さな枝、そして積み上げられた小石。

中に浮くカラフルな毛糸(?)玉や、泡のように小さな透明ガラス玉。小さい小さい鏡。空調にただよう風船。

どれもほんとうにひっそりと「在る」。そのことをただ、内藤さんだけが気づいて、それを丁寧に扱っている感じ。その行為が、結果的に私たちに、ほらここにもいるよ、ここにもあるよ、と教えてくれているような感じ。

とくに最後の第三会場は、たくさん人が行き交うラウンジにあって、スタッフさんがいなければ、何度も蹴飛ばされていたのではないかと思う。
でも、それが「在る」ことを浮き彫りにしている感じがした。

展示室をはみ出していようが、邪魔だろうが、簡素な素材だろうが、関係ない。分け隔てることなく、そこに在る。生まれでてくる。内藤さんはそれをただただ大切に受け取っている。整えたり、見やすくしたり、わかりやすくしたりしない。それは生まれてくるものへの紛れもないリスペクトだ。

家に帰ってから、スケートボード女子の予選を見る。決勝は寝てしまったので、結果は朝知った。おめでとうございます。

私はオリンピック以外でスケボーの試合を見ることはほとんどない。4年に1回の感覚でしかないのだけど、選手を見るたびに、なんともいえない美しさを感じる。女の子たちのファッションが好きだ。メガネをかけていたり、ロングヘアだったり、ブラトップだけだったり、Tシャツだったり。それぞれが好きな格好をしているのだけど、過剰な感じがしなくて抑制が効いている。それでいいじゃない、あなたが好きな格好をするのが当然、人に合わせるほうがダサいでしょ、という空気があるから、過剰にする必要もないのだろう。

技に関しては、私のような素人が観ていてもなにがすごくて、なにがそうでもないのかはよくわからない。「ん?いまのすごかったの?」と思う。しかし、毎日練習している仲間はそれが難しいことを身体で知っている。「おおっ、すげ!」とリスペクトの眼差しが自然と生まれる。解説の瀬尻さんがいてくれることで、私はそのことをちょっとだけ一緒に味わうことができる。

彼はたとえ失敗してしまったときでも、チャレンジした瞬間にリアクションをする。決めたことももちろん称えるけれど、難しいこと、見たことのないものを表現した瞬間、そこにまなざしをむけているのだ。

https://twitter.com/janjanrock/status/1817555470800011534

自分を表現できていることが、素晴らしい。表現をしたことへのリスペクト。私が彼女たちを美しいと感じるのは、スケボーの文化に漂うリスペクトがあるからなのだ。女の子たちはそれをめいいっぱい浴びて、思いっきり練習の成果を披露する。見ている人たちは、そこで生まれてきたものを惜しみなく称える。評価しない。だからこそ、彼女たちはますます輝く。



尊敬というより、リスペクト。
この違いについてとても興味深いコラムがあった。

「類義語辞典で正解を探そうとするのでなく、まずは自分の頭で考えてみてください。」と書かれているのに、最初から調べてしまった…。
(この言葉の感覚の違いを考えること、やってみたい。)

(前略)この思考プロセスから「尊敬」と「リスペクト」の違いを…
「尊敬は人そのものに対してするもの」
「リスペクトは人以外の概念や事実に対してするもの」
と説明することができます。

KEIO MCC「ファカルティズ・コラム」


人以外の概念や事実に対してするもの。内藤さんの展示では、目に見えない、けれどそこに在るもの。そしてスケボーという競技が本質的に持っている、自分を表現しようとすることを称える文化。これらは私にリスペクトを浮かび上がらせてくれる。

「あいだ」なのだ。みえないものと内藤さんのあいだ。選手とそれをみまもる人たちのあいだ。そこに現れる優しく、美しい、空気のようなもの。私はそこに心を震わされている。

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