7/20 2024

理念存在に囚われることなく、生きることは難しいことである。

親というのは、人の誕生のほんのきっかけに過ぎないが、子どもを養育しなければならない。親という理念上にしか存在せず、現実に位置を占めないものになろうと、様々なことをする。

養育に必要なものを得るために苦労を伴う労働に携わり、子が育つために必要であろう教育を施す。

子の将来のためと思い、本を読み聞かせたり、旅行に連れていったり、ピアノを習わせてみたりする。子が嫌だ、と言えば、あなたのためよ、と言ってみたりしてなんとかそれに取り組むように様々な創意を凝らし、なんとかスイミングスクールに向かうバスに乗せたりする。

子はすくすく育つ、ということをいつしか忘れ、私がちゃんとしないと、この子は駄目な大人になってしまうと思い込む。

必要以上に苦労をして育てた子が、こんな人になって欲しいと思い描いた大人になることは遂になく、いつまでも実家に居座り、ご飯まだ?と夕食を準備するよう急かす穀潰しがあるのみである。

理念存在は、建築物を作る上では大いに役に立ったかも知れない。しかし生きている人間が緻密細かに描かれた設計図ではくて、イメージとして各々が好き放題に抱くものに、当てはめるということはどこか必ず、現実を取りこぼすのである。

そのようになるしかなかったものを、どうしてこうなってしまったんだろうと悩むことはない。一生懸命やった、という気持ちだけあれば十分である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?