雑務を誰かに押し付ける人に、私はなりたかった。
吾輩は猫を被るニンゲンである。名前はぽん乃助という。
「希少性の高いの仕事をしている人は収入が高い傾向にある」というのは、当たり前の摂理だ。
ゴマスリして出世をする例外もあるけど、世間的に高い評価をされる社会人は、客観的に見ても希少性の高い仕事をしていることが多い。
希少性の高い仕事をする人は、その人の才能や努力に着目されることが多い。その証左に、偉人の武勇伝をまとめた自己啓発本があちこちに転がっている。
でも、ひとつ着目されていないポイントがあるように、私は思う。
それは、世間的に評価される人は、希少性の高い仕事に集中して取り組んでいるのだ。逆に言えば、希少性の低い仕事(すなわち雑務)をやっていないのだ。
では、雑務は誰がやっているのか?
答えは非常にシンプルだ。世間的に評価されない人たちが雑務をやっているわけである。
すなわち、世間的に評価される人たちは、競争に勝って雑務をやらなくても良い地位にいる、あるいは誰かに雑務を押し付けているわけである。
誰も雑務をやらなければ、社会は回らない。けれど、雑務をする人は誰にも評価されない。社会で評価されている人は、雑務をやっていない。
世の中の偉人の生き様ばかりが私たちの目に映るが、目に映らない部分には、この残酷な真実があるわけだ。
いや、目に映らないのではない。目に映したくないのだ。
ピラミッドの上層部には、ほんの一握りの人しかいられないし、自分がいけないのは薄々理解している。
ただ、自分がピラミッドの下側にいるかもしれないということを、誰もが簡単に認めたくないのだ。
「炎上覚悟で言いますが〜」「何度でも言いますが〜」「〜固ツイへどうぞ」
私はかつて、SNS上で情報商材やオンラインサロンに影響されたようなテンプレのような発信がバズっているのを見て、「搾取構造」などと最もらしい表現を使って批判していたときもあった。
ただ、私は内心、彼らがお金や承認欲求を安易に稼いでいるものだと錯覚に陥っており、羨ましかったのだ。
もっと言えば、リアルの世界で、私自身が雑務を押し付けられる側であることを認めたくなかったのだ。
だから、最もらしい言葉を使って他者を批判することで、残酷な現実から逃げていたのだ。
でも、その時の私は、「で、君はどうしたいの?」と訊かれたら絶対に何も答えられなかったと思う。
SNSで自分のアカウントを伸ばすために、自我を捨ててまで、お金を払ってテンプレ発信をするほうが、よっぽど現実と向き合っていたのだ。
雑務を誰かに押し付ける人に、私はなりたかった。当時の私はこの感情で、埋め尽くされていたのだと思う。
でも、よく考えてみれば、今の社会では競争すること自体が目的になっているように思う。
本来より良いモノやサービスを生み出すことが競争の目的なはずなのに、そうではなくて、短時間で稼ぎやすいポジションを奪い合っているように思える。
経済状況が悪化したりAIが進化したりすれば、この椅子取りゲームは、より激しくなるのだろうと思う。
世の中では情報に満ち溢れていて、ググれば無料で情報を得られるのに、情報商材やオンラインサロンが乱立するのは、この椅子取りゲームの一環なのだろう。
以前、現代思想の著書を読んだときに、フランスの哲学者であるミシェル・フーコー(1926-1984)の考え方にハッとさせられたことがあった。
SNS上で「搾取構造」を批判していた私は、「支配・被支配構造」を破壊するどころか、むしろこの構造を支えてしまっていたのだろう。
だから私は必死の抵抗で、インターネット上では、猫に転生することにした。
そもそも、私はインターネット上でニンゲンとして生きられるほど、精神力が強くないのだ。
精神力が弱いと、まるでソードアート・オンラインの世界観のように、インターネット上のニンゲンとして受けた心のダメージが、そのままリアルでの人間としての心にも同等のダメージを受けることになる。
逆に言えば、ネット上でニンゲンとして生きてお金も自己承認欲求も稼いでいる人たちは、リアルの人間の在り方とは切り離せるくらい精神力が強いのだ。
ただ、最近思う。精神力が低いニンゲンにとっては、目線が低くて他のニンゲンさえも見上げてしまう猫として生きた方が心地が良いのだ。
中途半端な背の高さを持ったニンゲンが自分の目線の高さを保つために、必死になるよりも、大らかに生きられる。
私はこれからも、猫の低い目線から見上げて映ったものを、文字として綴っていきたい。
(P.S.)
「眠れない夜に寝ねがら聴ける┆安眠ラジオ」を、YouTubeで投稿しています。
ぜひ、ご活用してやってください。
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