他人の子どもを叱れない
吾輩は猫を被るニンゲンである。名前はぽん乃助という。
子どものときに、叱られたことはあるだろうか?
「親父にもぶたれたことないのに!」という例外もあるかもしれないが、子どものときに親に叱られた経験のある人が大半だろう。
善悪がつかないから、無邪気な行動をしてしまう。親から叱られて、それが悪いことだと知る。
そんなのは、通学路と同じように、誰もが子どものときに通る道だ。
ただ、子どもとて、いつも親の近くにいるわけじゃない。
外で友だちと一緒にいるとき、ついつい無邪気に遊んで、周りに迷惑をかけてしまう。
仲間はずれにされてしまうこともあるから、嫌々、その無邪気な遊びに参加していた人も少なくないだろう。
そんなとき、私が子どものときは、近所のオジサンやオバサンが物凄い剣幕で叱ってくれた。
そんなこと、今は昔。気づけば、私は、大人と呼ばれる年齢になってしまった。
今度は、子どもに善悪を教えなければいけない立場になってしまった。
さて、ここで急に、無邪気に遊んで周りに迷惑をかける子どもたちが目の前に現れたとする。
叱るかどうかなんて、悩んでる暇なんてない。
一瞬の判断で、あなたはその子どもを叱れるだろうか?
そんな私はというと、他人の子どもを叱ることなんてできなかった。
◇
私は、街中の小さな銭湯が好きだ。週に5回くらい行くときもある。
刺青があろうと差別されない小さな銭湯では、普段関われない人との無言のコミュニケーションを図ることができる。
そんなある日、いつもは見かけない2人の男の子がいた。たぶん、小学生の高学年か中学生の低学年といったところか。
銭湯を無邪気に楽しむ子どもたち。いつもは、微笑ましいと思えるシーンだ。
でも、その子たちは、一線を超えていた。
サウナ料金を払わずにサウナに入る。サウナの中で大騒ぎする。サウナの中の敷きタオルをごちゃごちゃにしてしまう。水風呂の中でうがいをする。体を拭かずに脱衣所を歩いてしまう。
私がまだ未熟だった子どもの頃を想像すると、そんなふうにはしゃいでしまうのも、よくわかる。
でも、社会の倫理観に照らし合わせれば、紛れもない「悪」である。
周りにいた大人たちはみんな、怪訝そうな顔をしていた。もちろん、私もだ。
サウナの中で耐えかねてしまった私は、叱ろうと思った。しかしその瞬間、色んな想像が頭を巡った。
この子たちが、「殴られた」と嘘をついて、モンスターペアレントが出てきてしまったらどうなるのだろう。
はたまた、この子たちが叱られた腹いせに、私を盗撮してSNSに投稿したらどうなるのだろう。
そんな想像をしているうちに、その子どもたちは、浴場をそそくさと出て行ってしまった。
私のみならず、怪訝そうな顔をしていた大人たちはみんな、叱ることができなかったのだ。
けれど、その子どもたちが脱衣場をあとにする瞬間、私よりも立派なカメラのついたiPhoneを手にするのが見えた。
インターネット上では、法で裁けなかった悪人が社会的に裁かれることがある。でも、その陰には相当数の濡れ衣が居たに違いない。
私は、叱らなくて正しかったのだろう。たぶん、周りの大人も。
でも、どうしてだろう。何か胸につかえるものがあるのだ。
◇
以前、中国で子どもが轢き逃げに遭ったときに、周りの通行人が無視をして、救助のないまま亡くなったという事件があった。
日本のメディアでもかなり報道されていたため、記憶に残っている人もいるのではないだろうか。
当時、通行人が無視した理由として、色んな憶測が飛び交っていた。
その中で、ワイドショーでコメンテーターが「自分の責任が問われる可能性があるから」という尤もらしい理由を偉そうに語っていたのが、私の頭の片隅に強く残っていた。
なぜだか、私が体験した銭湯での出来事は、この事件が重なって見えてしまった。
あのとき、私は叱らなくて、本当に正しかったのだろうか。
SNSでは、些細な悪事をする子どもの動画が無数にアップロードされ、子育てをしたことがないであろう人たちに「親の教育が悪い」と一蹴される。
中には、親の実名や顔まで特定されて、社会的制裁を加えられる者もいる。
でも、私たちを育ててきたのは、親だけじゃなかったはず。理不尽なこともあったけど、色んな大人に叱られて善悪を知ることができた。
今を生きる大人たちに問われているのは、善人ヅラをして承認欲求を満たすために、それっぽい教育法をSNSに投稿することなんかじゃない。
目の前の子どもたちとどう接するか、これに尽きるのだと思う。それが、他人の子どもであってもだ。
今度また、銭湯で無邪気に迷惑をかける子どもを見たら、叱ろう。
いや、叱らないといけない。ひとりの大人として。
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