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言語化よりも大事なこと

「言語化」という言葉。

タコができるほど、最近よく耳にするようになった。

それは、人に気持ちをうまく伝えられずに、悩んでいる人が多い証左のようにも思える。

昨今は、テレビやネットでも、言語化が上手な人にスポットライトが当てられることが多い。

言語化が上手になりたい。

言葉の力で、みんなの目の前のもやを振り払えるような人間になりたい。

私は、ずっとずっと、そう祈っていた。

けれど最近、私は疑問に思う。

何でもかんでも言語化することを目指すことが、果たして正しいのだろうか?

私はこれまで、恋愛リアリティーショーというコンテンツに対して、ミジンコ程度の興味も持っていなかった。

そんな私であったが、最近、バチェロレッテ(バチェラーの男女逆転版)の最新作である3rdシーズンを視聴した。

妻が見せてきて、権力の弱い私には当然拒否する術がなかった。

簡単にこの番組を説明すれば、素敵な女性1人に対して、志願者の複数の男性が争って脱落していき、最後に女性が一人の男性を選ぶという企画だ。

しょうもない内容だと思っていたけど、結果的に言えば、とても楽しんでしまった。

見てもいないコンテンツを軽視していた自分が、とても恥ずべき存在に思えた。

そんなことはさておき、バチェロレッテを見ていて、私は一つ考えさせられることがあった。

余計なひと言を口にしてしまって、相手の心象を悪くしたシーンがとても多かったのだ。

逆に、うまく言語化できないことが、状況を好転させるシーンも多かった。

そして思ったのだ。

私は、言語化の沼に毒されているのではないかと。

「どうしても伝えなければならない。」

バチェロレッテの中では、この言葉がよく飛び交っていた。

けれど、伝えたところで相手の心はなかなか動かない。

BGMとカメラワークというものは偉大だ。視聴者にとっては、そんなシーンでさえも美しく映える。

けれど、冷静に見てしまうと、「それが伝えたかったことなの?」と頭の上に疑問符が浮かぶことが多かった。

そんな中、志願者の男性の一人が、伝えたいことを伝えられないまま脱落してしまうシーンがあった。

伝えたいことは、自分自身のトラウマであった。

最終的にその人は自分の中で気持ちを消化し、伝えたかったことは口にせず、「ありがとう」という言葉を残して立ち去っていった。

私はこのシーンを見て、なんていきなのだろうと思ってしまった。

傍から見たって、もし言語化していたら、安っぽくなっていたのは想像に難くなかった。

ふと、我に返って考えてみる。

私はこれまで、どれだけ余計なものを言語化してきただろうか?

そう考えてみたものの、恐ろしいことに、それを自覚するのはとても難しい。

「そんなこと言わない方がいいよ」と、親切にさとしてくれる人なんていない。

SNSを見れば、それは一目瞭然いちもくりょうぜんだ。言語化する必要のない言葉が、あまりに飛び交いすぎている。

けれど、それは言う必要がなかったと、自覚できないのだ。

それどころか、「どうしても伝えなければならない」という狂気じみた正義心に侵されていることもある。

抑圧された世界から抜け出すためには、言葉が必要だ。しかし、SNSが登場してから、言語化するのがあまりに簡単になってしまった。

余計な言葉が飛び交うたびに、言葉の重みがどんどん軽くなっていっている。

この風潮は、ネットだけじゃなくて、リアル世界にも押し寄せているように思う。

私はこれまで、自分の言葉を持つことで強くなると信じてきた。

ただ、ここ最近、久々に自分の陰口というものを聞いてしまった。

私の言葉に、穿うがった解釈が加えられていたのだ。まるで、今流行りの切り抜き動画のように。

きっと、私は余計なことを言語化していたのだろう。

そこでやっと、言語化至上主義に陥ってしまっていたのだと、自覚したのであった。

「あなたにとって人間関係とは」と問われたら、いくら歳をとっても、「難しい」という感想から変わることはない。

言葉にできずに人間関係がうまくいかないこともあれば、言葉にしたことで人間関係がうまくいかないこともある。

いまの私は、言葉が軽くなってしまっている。だからこそ、隙が生まれてしまっている。

私にとって、言語化よりも大事なこと。それは、沈黙だ。

これは、決して我慢するということではない。

言語化できるけどあえて言語化しないという積極的な沈黙が、私には必要なのだろう。

沈黙を増やすことができれば、「伝えたいこと」がより洗練されていく。

そうか。言語化と沈黙は、逆の概念だと思っていたけど、表裏一体なんだ。

言語化が上手な人を、指をくわえながら見て、「どうやって表現すればいいのだろう?」とばかり考えていた。

でも、私のような弱くて口下手な人間は、真似たところでできるわけがない。

そんな私でもできることは、「何を言わないか」を選ぶことなんだ。

それは、「何を言うか」を選ぶことでもある。

私はこんなことを考えなければ、明日を生きていくこともできない。

そんな自分が、とても嫌いだ。多分、ずっと嫌いなままだと思う。

けれど、めげずに明日を生きるすべを考えようとしている。

私の心の炎は、まだともっている。

そんな自分を今日ばかりは肯定して、早く寝ることにしよう。

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