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Moby-Dickで聞いてみよう

何故泣いているのかと、男は尋ねた。
女は、俯きシクシクと涙を流すだけで
男の問いかけに応えない。

天山の駐車場に停めていた
その男の車の前で
女は、しゃがみ込み泣いていた。


男は早く駐車場を出たかった。
忘れ物を取りにアパートに行って
四時までに
取引先に届けなければならなかったからた。


何があったのか
どこか痛い所でもあるのかと
聞いたが
やはり駄目だった。
ただ女は泣くばかりだった。



時間は刻々と過ぎて行く。


焦った男は苦肉の策として
女をドライブに行こうと
誘ってみた。


誘いに驚いた女は
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。


案外可愛い顔だ。
男は思った。


いやいや
そんな事を考えている時間はない。
時計に目を落とし
あの部長の顔が浮かぶ。
必ず四時だと言われていた。



ここで泣いてるよりは
きっと楽しい気持ちになれるばずだ
気分転換にドライブに行こうと
破茶滅茶な誘いをぶつけてみた。


男は少し無理矢理に女の腕を掴んで
立たせ、助手席に押し込んだ。


男は、ヤバいことをしているのかと
考えた。
だが女は、さほど抵抗もせず
すんなりシートに腰を下ろした。


エンジンをかけ駐車場を出ようとする際に
やっと女は、口を開いた。


何処に行くのかと。


そこいら辺りをひと回りしようと
男は、応えた。


ちょうど平和通りあたり
銀杏が色づいて綺麗になっているのを思い出した。
アパートは文京町だ。
近いし、いい口実になると男は考えた。


テッシュボックスを渡し
顔を拭くことを促してみた。


女は、鼻をテッシュで挟み
もう片方の手で涙を拭いた。
その後女は、無言のままで
無表情にフロントガラスの先を見ているだけだった。


男は、気まずかった。
会話の無い車中は苦痛だ。
男は、気まずいさを消そうと
カーラジオのスイッチを入れてみた。


DJがリクエストの葉書を
丁度読み終えたところで
続いて軽やかなイントロが流れ出した。


吉田拓郎の
『カンパリソーダとフライドポテト』
だった。


車は柳井町を抜けて
千舟町辺りにさしかかっていた。



つい先日に男は、
初めてカンパリソーダを飲んだところだった。


これは、いい。
話す糸口を見つけたと男は、思った。


男は、カンパリソーダを飲んだことがあるかと
女に聞いてみた。
声は出さなかったが
女は、首を横に振っていた。


男は、得意げに
とても綺麗な泡がグラスの中で弾けること
甘くて飲みやすい、口当たりのいい酒だと
そして話しは、それを初めて口にした店のことへと
移っていった。



店は明るく
ドアを開けると
多くの笑声が夜の街に溢れ出す。


暗い奴など一人もおらず
暗い気持ちで入って来た奴も
見知らぬ誰かに肩を叩かれ
やがて笑顔になる店だと。


知らない人がいつの間にか
友達になってしまうほと。


カンパリソーダの赤が
船の中をイメージした明るく広い店内の照明と
やけにマッチして
学生や若いサラリーマン
ちょいとお洒落なオヤジとか入り混じる
とにかく楽しい店だと
男は、話す。



すると
私なんか楽しい店は似合わない
女が、ポツリと言った。


あの店は違う!
あそこは誰でもハッピーになれる店だと
男は、説いた。


一度行ってみるといい
そうすれば自分の言ったことは
嘘でないことが分かるはずだとも。


信号が赤になり車は止まる。

熱くなっている自分に男は、気付いた。
だか仕方がない。
あの店は本当にハッピーになれる店だ。
男が頭の中て繰り返し呟いていると


女が話しかけて来た。


初めての店に一人では無理だ
そんな勇気なんて持ち合わせていないと。



男は、少し考えて


今週土曜の夜は暇かと
女に尋ねた。


女が応える前に男は
信じてもらえないのがとても悔しい
一緒に行こう!
Moby-Dick2号に!と。


あまりの迫力に、女は吹き出し
私なんかでいいのかとも聞いてきてきた。


問題なしと男は、応え
番町街に店があるから
大街道と銀天街の間にある


狸の石像前で、土曜の夜の八時にと


すると女は
またまた吹き出して
狸の石像前での待ち合わせなんて
と笑った。

男は
笑顔がいいよと
女に言った。


口説くつもりはなかった。
ただ、いい笑顔だったのだ。


女は落ち着いたようで
そうね。
ありがとう。
ここでいいわ。
忙しいんでしょ。
無理して乗せてもらっちゃって。


女は、車を止めて欲しい場所を指差した。


男は
車を止め
女は
ドアを開け車から降りた。


男は、じゃあと手をあげた。
そして、二人同時に


『土曜の八時、狸の前で。』


二人は声を出して笑った。


女は
ハッピーアイスクリームと
戯けるまで元気になっていた。


女を残し
男は車を出しアパートに向かった。
バックミラーに女の姿が遠ざかって行った。


しばらく走って男は
面白いものだと思った。

ハッピーな店の話をして

泣いていた女が
ハッピーな顔になって
別れる事ができるとはと。


そして
そういえば女が泣いていた理由を聞くのを
忘れていた事に気付く。


だが、まぁいいかと
微笑みながら思った。



カンパリソーダを飲みながら
土曜の夜に
Moby-Dickで聞いてみようと。


遠い1980年 11月のある日
午後2時28分のことだった。








お酒が飲めない私が学生時代に通った
Moby-Dick2号

今は、もうない。

浮き輪やローブ、金色の金具
広くて明るくキラキラした店内。

職場や学校での嫌な事を全て忘れさせてくれる
店だった。

こっちらかも、あっちからも
ドッツ湧き上がる笑い声。
大きな貝殻に入っていたシーフードサラダは
格別だった。

もう一度、行って飲みたい店と言えば
Moby-Dick2号だ。


ちなみに1号は
松山城堀端にあったそうだが
そちらに行く事はなかった。


お読みいただき
ありがとうございました。

地方の町名などそのままを
使わせて頂きたした。











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