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忘れられない人になるための必要経費の話

 「好きな人の記憶に残りたい。好かれなくていいから、相手にとって一生忘れられない存在になりたい。

 かつて、ぽろっと友人がこぼした言葉です。「記憶に残る」は結果であって、誰かの記憶の取捨選択に外側から干渉できるものではありませんが、実は心当たりがないではありません。

 わたしには捨てられない万年筆があります。

 パイロットのカスタム74。黒いボディに金の縁取りの、極めてスタンダードな見た目の万年筆です。
 これを贈られたのは誕生日のことで、相手は長い付き合いの友人でした。当時わたしは大学生でしたから、1本1万円を超える筆記具は大変貴重なもので、それはそれは大切に扱ったものでした。
 その相手との摩擦が積み重なって、けんか別れになるまでは。

 真正面から言い争いもしない、LINEメッセージ1往復分の極めてへっぴり腰なけんかでしたが、わたしにとっては人生で3本の指にはいる腹立たしい出来事でした。速攻で相手の関わったものを処分して、生活から完全に記憶を消そうとしましたが、どうしてもその万年筆だけは捨てられなかったのです。
 なんせ手持ちの文房具の中ではいちばん値段の張る代物ですから、もったいなくて手放せないわけです。物に罪はないからそのまま使ってやろうと思ったのですが、むかつくことに贈り主の顔がときどき頭によぎります。
 「いつかこれより高い万年筆を買って、こんな安物要らないと手放してやる」プライドを守るにはそう心に誓うしかありませんでした。筆記具に高い金を使えるようになるまで、言い訳をしつつ、仕方なくその万年筆を使っていました。

 さて、今年はちょっと多めにボーナスをもらってしまったので、万年筆を新調しました。
 真っ赤なボディに沈んだラメが美しい、セーラー万年筆 四季織シリーズの「かぐや姫」です。お値段は2万円弱。ぎりぎりの勝利ではありますが、一応悲願は達成することができました。これで贈り物の万年筆にはもう用がありません。

 すわ、ゴミ箱にさよなら、と思ったのですが。
 なぜかやっぱり捨てられないのです。

 どういう心理なのかわかりませんが、いつの間にか、かの万年筆にも謎の愛着が湧いていたらしいのです。勿体無い、物に罪はない、などの言い訳の出番はなく、ただ純粋に「捨てたくない」という気持ちがありました。

 思い出もひっくるめて大事にできるようになったのでしょうか。
 あるいは、万年筆を手放してしまうと、その苦くてはらわたの煮えるような思い出も、手放すことになってしまうからなのでしょうか。
 わたしは、あの相手のことを、忘れたくないと思っているのでしょうか。
 いやまさかね。

 要らない、どうでもいいと認識しているものに、ときどき思ってもみない形で価値をつけてしまうことがあるなんて、どうも人間の目とこころには不思議なバグがあるようです。不都合ですが、そういう生き物ですから仕方ありません。

 なので、冒頭の質問へのお答えとしては「2万円程度の万年筆を贈りましょう」というのはどうでしょうか。
 あと2万円を出そうか逡巡するような相手なら、むしろ記憶に残らないことをお勧めします。その直感は、多分当たってます。


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