見出し画像


「お兄ちゃんが帰ってこない」

仕事帰り。チェーン店の居酒屋で同じ職場の彼女の話を聞いていると、ひどい眩暈がした。

「捜索願は、出したの?」

彼女は首を横に振ると、また視線を机の上に戻す。兄、慶次の部屋に置いてあったという手紙が、事件性のなさを証明していた。

「きっと……限界、だったんだと思う」

机の上に並べられた手紙は2通。母宛と、妹宛だ。

「お母さんに宛てた手紙には、しばらく探さないでくださいって書いてた。お母さんにはまだ渡してない……探し出すに決まってるし、警察どころじゃ済まない気がする」

彼女は封筒から手紙を出した。一筆箋にただ一言、言葉が綴られているだけだった。無機質な手紙。冷たさしか感じられない。

「そっちは?」

私が聞くと、彼女──春香はもう一通の手紙に視線を落とす。春香へ、と書かれた手紙は母親宛のものと違って暖かさを感じた。

「こんなことになってごめん、一人にしてごめん、って」

春香は自分宛の便箋を広げた。優しい字で書かれた手紙に視線を落とす。紛れもなく春香の兄、慶次の字だった。

「お母さんは異常だった。異常すぎた。お兄ちゃんのことを束縛して、進路も生き方も何もかも思い通りにしようとした。言うことを聞かなければ暴力を振るって、それじゃ効かなくなったらまた次の手を考えて……」

春香の悲痛そうな顔を見て、私は唇を噛んだ。お兄ちゃん、もう30になるのにねと。

「ごめんね、誰かに話を聞いて欲しかっただけなの」

そう言って頭を下げる春香に、気にしないでと声をかける。

「ありがとね」

春香はすっかり冷え切ったホットコーヒーに口をつける。

私の心も、すっかり冷え切ってしまった。

***

「それで、春香はなんて?」

彼氏にホットコーヒーを手渡すと、そんな質問が返ってきた。今日、春香に会ってくると言ってからずっとソワソワされていたのだ。

「お母さんには言えない、って。取り乱すと思うから的な感じだったかな」

隣に座ってため息をついた。フローリングがやけに冷たい。

「あくまでお母さんに対して、兄が限界なんですって言ってるの?」
「そう……自分がしたことは棚にあげてる」
「手紙は?」
「母親宛の手紙を自作してた。筆跡が明らかに違うから詰めが甘いなとは思ったよ」

春香宛の手紙は本物だ。兄から妹に宛てたサヨナラの手紙。
しかし母親宛の手紙は偽物だった。春香が自分自身で、兄のふりをして書いていることは筆跡を見れば一目瞭然だ。

私が春香の嘘に気づいたのは3ヶ月前。
それまでずっと、兄弟で母親からの精神的DVを受けていると聞いていた。母親に殺されるかもしれないと相談をされ、本気で心配をしていた。
しかし蓋を開けてみれば、暴力を振るっているのは春香のほうだった。兄を縛りつけ、自分の思い通りに動かそうとしていた。母親はとうの昔に精神を病んで入院。
私はそれを、春香の兄である慶次本人に言われて知った。
母親の元にも足を運んだ。時折言動は不安定になるものの、確かに二人の母親だと分かった。

「もう呼ばれても行かないで。俺心配だよ」

彼は不安そうな顔で私の右手を握る。私も自然とその手を握り返した。彼の額に最近できた大きな切り傷を思い出す。

「大丈夫だよ、ただ同僚として相談しただけでしょう」
「そうかな……」

春香の兄がいなくなるのは当然だろう。

兄をしもべのように扱い、自分は女王様。兄が言うことを聞かなければ暴力でねじ伏せ、逆ギレしようものなら警察を呼ぶ。お兄ちゃんに殺されちゃう、泣きながら演技をするのだ。
3ヶ月前、慶次が春香に「何かの精神疾患かもしれないから、病院に行こう」と説得したら、花瓶で額を思い切り殴られたそうだ。逃げても騒いでも自分が悪者になるのだからと、慶次は黙って耐えるようになってしまっていた。男の力で妹を抑えても、意味ないのだと。
だから私が気づくまで、慶次は妹の本性を明かさなかった。それまで、私は何も知らなかった。

なぜそこまで母親や兄にひどく当たるのか、私にはわからない。ただ慶次は「愛情不足だったのかもしれない」と言う。
だから彼氏は、私がそんな春香から急に呼ばれたのをひどく心配していた。

「バレてなかった?大丈夫?」

隣に座る彼氏──春香の兄、慶次は私の顔を見つめた。

「大丈夫だって、そんな簡単にバレないよ。慶次と付き合ってることだって知らないし、それに」

慶次の肩に頭を乗せる。

「まさか慶次が私の家にいるなんて、知らない」

部屋の中に積み上げられた段ボールを見つめる。もう少しで引越し業者がくる。この家ともおさらば。
妹の魔の手から逃げて、慶次と二人で仲良く田舎暮らしを始めるのだ。段取りは完璧だ。

インターホンが鳴った。

「俺でるよ」
「ううん、何があるかわからないから、私が」

玄関のモニターに視線をやると、青い帽子の引越し業者がそこに立っている。

「はい」
「引越しセンターです」
「あれ……時間早くないですか?」
「すみません、早くついてしまいまして」
「そうですか、じゃあ今開けますね」

私が言うと、慶次は大きく深呼吸をして床に置いてあるボストンバックを手に取る。自宅から持ってきた、お気に入りのボストンバック。
それから目配せをして、一度頷いた。

「どうぞ」

玄関を開けると、突然右腕に鋭い痛みが走った。驚いて見ると、長袖のカットソーがぱっくりと切れ、皮膚から血が流れていた。

「お兄ちゃん、迎えにきました」

引越し業者が帽子を脱ぐ。
春香だった。手に持つ小型の果物ナイフから血が数的滴った。

「な、なに」
「いるんでしょう、兄がここに」

春香は私を押し飛ばし、部屋の中に入っていく。土足のまま、ダンボールまみれの家の中へ。

「お兄ちゃん、きたよ」

靴跡がフローリングにつく。
リビングのドアへまっすぐと向かう。
ドアノブに手をかけ、春香は中へと踏み込んだ。

***

「なんで居場所がバレたのかな」

車を急いで走らせながら、慶次は悔しそうにつぶやいた。

「その怪我、早く先生に見てもらわないとだし」
「大丈夫だよ。もう血は止まったから」
「でも」

ぱっくりと切れた右腕にタオルをぐるぐる巻にして、素人の知識を寄せ集めながら止血をした。
あのときモニターに映った引越し業者の姿を見て、慶次は玄関すぐ横の洗面所に隠れていたのだ。リビングに入ったタイミングで、一緒に逃げ出すと言う計画だ。
失敗したら殺すしかないんじゃないかと話していたが、なんとか手を汚さずに逃げてこられた。

「結果的に良かったじゃない、一応引越しできるんだし」

私が話すと、慶次は少し口を緩ませる。

「そうだな、新しい人生がこれから始まるんだ」

信号で車を停める。新居での暮らしに向けての思いを一緒に語らった。
どんな家具を買おうか、これまでできなかった旅行もたくさんしよう、ベランダ菜園を始めてみたい。その前に仕事を探さないとね。
夢を語る私たちは、過去を捨てて前に歩き出そうとしている。気持ちを新たに前を向いた。

横断歩道の真ん中に、春香が立っていた。

「お兄ちゃん、迎えに来たよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?