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優しい亀の子供
ユウゴは大声で歌を歌っていた。聞いたことのない歌、流行りの曲だろうか?部屋全体に響き渡る声で気持ち良さそうに熱唱している。なぜか俺もそれに続く。
「いい加減うるさいんだけど」
声を発したのは若い女、目の前にいる可愛らしい女性だ。黒いボブヘアがサラリと揺れている。俺の最愛の人だ。ちなみにユウゴも、変わらないくらい愛している。
「集中できない!気が散るし、やかましい。邪魔、出てって欲しいくらい」
彼女はギリギリと奥歯をすりつぶしてこちらを睨みつけてきた。
「そんなこと言うなよ!俺たちはエールを送ってんだぜ」
ユウゴはついに太ももを叩き、パーカッションを導入する。俺も靴をタカタカとならして参戦した。愉快だ。ユウゴの楽しそうな姿に思わず顔がほころんだ。高校生のユウゴと、30過ぎの俺。学校の生徒と先生みたいだ。
「はあ」
彼女はうんざりした顔で肩をすくめ、作業に戻った。さっきから自分の身体の中に手を突っ込んで、内臓をこねくり回している。静脈と動脈を電気回路みたいに心臓につなぎ合わせ、黒く濁っている部分を見つけては人差し指と親指でプルプル震えながら慎重に取る。
部屋には白いロビーチェアが1つ置かれている。座り心地の悪い椅子に、俺とユウゴはずっと座っていた。彼女は目の前のベッドに座っていて、時折思い出したかのように天井を仰ぐ。彼女の座るベッド以外には、入り口にいるおばさんだけ。あとは真っ白、なんにもない空間だ。窓から見える空の色は紫色で、夕方か朝なのかさえわからない。部屋はぼんやりと、霞がかっている。
「ババッとやって、ちゃ~~~っと直したら、どうにかなるだろ」
ユウゴが突然歌うのをやめて言い出した。そうして彼女のそばに近づきなんだか適当に内臓を動かしだす。
入口の方にいる女の人が顔を上げた。髪の毛が真っ黒の、年配の女性。「あらあら」と言う顔をしたかと思うと、その人がいつからか読んでいた、レンガ3個分くらいの分厚い本が、ゆっくりと数ページ巻き戻っていった。
「もう、そんな適当にやったらダメよ」
彼女は心配そうにユウゴの指先を見つめている。「あれ、おかしいな?」とユウゴが首を傾げると、おばさんの読んでいた本が一気にラストまで進んだ。
「ほらね。こういうのは、根性と集中力が大事なの。知らない?」
ユウゴの手をよけて、彼女はまた作業を始めた。黒い塊をポイと取り除き、床に落とす。落ちたソレは煙を出しながら空中へと消えていく。あとには何も残らない。
「こんなに時間かかってたら、俺死んじゃうよ!」
死、と言うセリフに胸がゾワゾワした。なんだかおかしい。
「あーあ!亀じゃなくてウサギって苗字だったらよかったのかなあ!」
ユウゴが失礼なことを言い出すので、ついふとももをたたいてしまう。
「ユウゴ、亀ってすごいのよ?ウサギはさ、寝たらいつのまにか亀に追い抜かされちゃうの。諦めないで着実に成果を上げていく亀のほうがいいってこと、知らない?」
彼女は片眉を吊り上げて、ユウゴを一瞥する。ベッドの脇に書かれた「亀山こころ」という名前がキラキラと輝いて見えた。特に、亀の部分が。
「もしウサギが寝なかったら惨敗だぜ?すげー強いウサギだったらどうすんだよ」
「それは、あなたたちが助けてくれたらいいでしょ」
優しく微笑んで、彼女は心臓の周りにある黒い塊を数えだす。
「ああほら、あと5個くらい。私亀だから、1時間はかかるし、まぁ寝て待ってなよ」
半分嫌味っぽい言い回しで、ニンマリ笑って両手を合わせる。「おやすみなさい」のポーズをしながら、黒い塊をまた床に落とした。
大きくため息をついて目をつぶる。後頭部にひんやりとした窓ガラス。遠くの方でパタパタと、誰かの歩く音がする。
目をつぶると暗闇がどんどん押し寄せてきた。きっと眠かったんだ、すぐに夢の中へ行けそうだ。でも夢の中というより、狭いトンネルをひたすら歩いているような変な気分だ。
暗闇がだんだん白い光に変わっていく。一面真っ白な世界になったかと思うと、目の前に真っ黒な花が咲いていた。バラだろうか。少し遠い。世界の真ん中にポツンとそれがあった。その横には、小さいうさぎ。
「やあい、のろま!」
ウサギと亀の話をしていたからだろうか、ウサギの顔がやけに腹が立つ。真っ黒なバラの横には悲しそうにたたずむ亀……の姿をしている彼女がいた。
「のろまじゃないもん」
「のろまだろ!じゃあ追いついてみろよ!」
ウサギはバラをブチッとむしり取って走っていった。
「待ってよ!」
泣きそうになりながら懸命に追いかける亀。それをただ見つめているだけの俺。「がんばれ。のろまな亀」と一言呟いた。
「待って」
亀は懸命に身体を動かすのだが、ウサギはあっという間に遠くへ行ってしまう。「ばーかばーか」と笑う声が聞こえる。さすがに可哀想になってきて、俺は一歩踏み出してみた。また一歩、一歩、前に進むとウサギが近づいてくる。なぜか歩くたびに俺の身体は大きくなっていって、しまいには巨人になった。ギョッとした顔でそいつは俺を見上げる。
「なんだよお前!」
俺が大きな手を伸ばすと、ウサギがそのバラをほおり投げた。
「やあい大男!お前のでかい手じゃ、どんなに大事な宝物でも粉々につぶれて終わりだよ!」
ゲラゲラと笑うウサギは、だんだんと真っ黒い、ただの塊に変化していった。もやもやとしていて気味が悪い。なんだかいやだなぁと直感で感じた。
するとユウゴが走ってきて、ウサギだったはずの塊をとっ捕まえていた。そのあとどうなったかは知らない。突然ユウゴの姿は見えなくなったからだ。最後に見たユウゴは、なんだか小さくて子供のようだった。
仕方なくバラを探していると、ふうふう言いながら亀がやってきた。しかし
「もう駄目だ」
歩みを止め、その場に倒れこむ亀。なぜか耳鳴りの様な機械音が止まらない。
「あきらめるなよ」
俺はとっさに亀を手のひらに乗せて、バラの飛んで行った方へ向かった。巨人なので辺りが良く見える。黒い点を見つけ、そこに近づいて行った。
「ほらあったよ」
しかし亀は返事をしない。
「おい、あったよって」
亀は黙ったまま、目をつぶり、ぐったりとしていた。
突然目の前に、さっき部屋で本を読んでいたおばさんが出てきた。誰だっけ、この人。
おばさんの足元にはユウゴがいた。ボロボロの姿で、力なくこちらを見ている。
「父さん」
誰のことだ? っていうか、ユウゴって誰だっけ。
おばさんは本をパタン、と閉じて一言。
「はい、おしまい」
その瞬間目の前がぐるぐると渦を巻き始めた。俺は巨人の姿のまま、必死に亀を抱きかかえ、飛んでいくバラを拾う。しかし指が太すぎてバラをつぶしてしまった。指の腹で粉々にすりつぶされ、そのうち消えた。
「亀山さん!亀山さん!」
大きな声に驚いて顔を上げると、看護師や医師が彼女のベッドの周りで慌ただしく動いていた。俺はやはり寝ていたのだ。
「奥さん、意識が戻りましたよ!」
看護師の声で現実に引き戻される。こころが目を覚ました?
勢いよく立ち上がってベッドを覗き込む。そこには、医師の問いかけに、少し力なく答えるこころがいた。俺の姿を見て少し口角を上げる。
「こころ…」
「潰してくれて、ありがとう」
なんの話だ?俺は首を傾げる。たくさんの管に繋がれながら、こころはフフ、と微笑んだ。頭の中で、おばさんの「あーあ」と言う声が聞こえた気がした。
まあいい、ここに戻ってきてくれたのならそれでいいんだ。なんだかしばらく、不思議な夢を見ていた気がするけれど、そんなことはどうでもいいんだ。
「赤ちゃんも、無事です。問題ありませんよ」
医師がそう告げると、こころはよかったと、一言呟いた。なに?赤ちゃん?
「ご主人知りませんでしたか?」
「えっ、赤ちゃんがいるんですか」
「ええ、妊娠8週目といったところでしょうか」
こころが黙っててごめんねとでも言いたいのか、手をぎゅっと握ってきた。いつだかこころに「あなたの大きな手は、いろいろなものを守ってくれて、大好き」と言われた手だ。それまでは硬くてごつごつしていて、大嫌いな手だったけれど、こころの一言で愛せるようになった。
「名前はもう、決めてあるの」
こころが絞り出すように声を出した。
「優悟」
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