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20世紀最後のボンボン 第二部 サンフランシスコ篇 第二章 行動の半径を拡げていく

これまでの話


23歳で家を出て、プロ家庭教師として

夏休みもお正月も休まず働き続けてきた私に転機が訪れる。30歳の7月であ

る。人生が大きく変わるから注意して生きていきなさいと言われ、10月に

ちょっとした縁で出会った16歳年上のボンボンと結婚する。



私たちの住まいから見える公園に行ってみようということになった。

その名前がハンチントン・パーク。

Huntington Park 写真拝借しました。


当時は時間帯によってはドッグ・パークのようになっていた。

たいていは、そのそばにあるフェアモント・ホテル

Fairmont Hotel San Francisco 写真拝借しました。


で、カンクン君の服を買って、お茶を飲んで、公園に行って、

のんびりアメリカ人と話す。けれどもそれはボンボンだけ。

私は当時はカンクン君にかかりきりで、ちゃんと見ていないと

危ないから、英語で語り合うなど、100年早い状態だった。 

5年も学生ビザがあるし、語学学校はまだまだ始まらないし、

焦っていなかった。当時は移民局もそんなにうるさくなかった。

カンクン君を育てることに夢中だった。

確かに景色は美しかったが、私にはカンクン君しか

目に入っていなかった。

それはボンボンも同じだった。

同じかそれ以上だった。よく人は目に入れても痛くない

という表現を使うが、ボンボンにとって、カンクン君は

目に入れて血だらけになってもぜんぜん痛くない状態だった。

ボンボンは自分と私にしかカンクン君を触らせないと

言い張っていた。

私たちはノブ・ヒルというとても落ち着いたところに住んでいたが、

それでも、いつ何が起きても不思議ではない、緊張感に

満ち満ちていた。

たまたますれ違った上品そうな高齢のご婦人が

「そんな小さい子供をこの辺で遊ばせていたら、撃たれるわよ。」

とすれ違いざまに言い捨てた。ボンボンはこれに反応した。

「そんなに誰もが銃を持っているのか」

と。ご婦人はそんな当たり前のことをなぜきくとでも言いたげに肩をすくめ

て、坂を下りて行った。

本当かもしれないし、私たちがアジア人だから目立ったのかもしれない。当

時のサンフランシスコは今ほどアジア人がいなかった。

私たちが借りていたコンドミニアムの持ち主はチャイナタウンで、足の医者

をしていた中国系アメリカ人だったがそれは例外で、ほかの住人は全員、白

人だった。

写真お借りしました。


コンドミニアムのロビーにはジョージという名のジャニター(警備員)兼コ

ンシェルジェがいた。ジョージはカンクン君のことをキングと呼んでかわい

がっていた。ジョージは特別にカンクン君のことを触ってもいいとボンボン

は許可した。カンクン君はジョージの褐色の大きな手をおもちゃのようにい

じくりまわしていた。ジョージはアトランタの出身だったが、戦争で足を悪

くしてから、サンフランシスコに来て、働くようになったそうだ。それでも

重い扉を私たちのためにあけてくれたりした。

ボンボンも私も車の免許を取っていなかったので、

買い物は2ブロック離れたところまで歩いて行った。帰りはカンクン君を載

せて、カートを引っ張ってきた。行きは下り道だが帰りは荷物とカンクン君

の重さを引っ張って上るので、かなりの重労働だった。

それでも途中で邪魔されたり、問題が起きたことはなかったし、銃声も聞か

なかった。ボンボンは私が一人で買い物に行くことを危ないという理由で禁

じていた。けれども、あるとき、私は一人で出かけた。こわかったが、私は

アメリカが民主主義だというのなら、この2ブロックくらい、平和に歩けな

いで、どうして、民主主義なのかとぶつぶつ言いながら、速足で歩き切っ

た。フランスやドイツの道を歩いているのとは全く違う緊張感がやはりあっ

た。ときどきサンフランシスコで、銃が発砲されると日本の誰かが心配し

て、電話してきた。ワン・ブロック違うと雰囲気が全然違うので、私たちは

そういうニュースは知らないことが多かった。

やはりじかに住んでみないと、アメリカの緊張感はわからないと思った。


20世紀最後のボンボン 第二部 サンフランシスコ篇 第三章 南下

に続く

What an amazing choice you made! Thank you very much. Let's fly over the rainbow together!